テレビの進化における画面上の功罪について

 人の家を訪れたおり、えらく新しく、えらくいいテレビで「行列のできる法律相談所」を見ました。私が見たくて見たわけではないのですが、磯野貴理子(名器説)の肌もぴかぴかに見えました。ゲストにキャイ〜ンが出ていました。ネタは「ウドがプライベートで天野につきまとう」云々。ちょうどウド鈴木結婚報道の昨今、ぴったりといえばぴったり、外していると言えば外しているというネタでしょう。しかし、私が注目したのはウドではなく天野ひろゆきその人でした。
 天野っちのメガネに度どころかガラスすら入っていないのは周知の事実です。しかし、普通にテレビを見ているとき、それを気にしたことがあるでしょうか。私は、はじめてその事実をテレビで見たときの驚き以来、いっさい気にしたことがなかった。ところが、この、デジタルだか液晶だかプラズマだかハイビジョンだかわからないテレビだとどうでしょう、あまりに不自然にわかるのです。「何でこの人はメガネのフレームだけかけているのだろう?」と思ってしまうくらい明確さです。これには驚きました。
 そういうわけでして、今後はお笑い芸人もハイデフに対応する必要が出てきたという話です。ブラウン管でごまかせていたり、ブラウン管だからネタになっていたものが、もうそうではなくなる。しかし、ハイデフに対応したネタの沃野は広がっている。そういう話です。しかし、このような事例が天野のメガネ以外になにかあるのか知りませんし、あるいはハイデフハイデフ言ってますが、意味はよく知りません(……と投げ出しておきながらも、キーワードの下線が勝手にひかれてしっかり解説してくれるこの仕組み。書いているときとアップしたときでの自己矛盾、なにやら妙な気持ちになります)。