ワールドカップ:言葉で人は死ぬ

goldhead2006-07-13

http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20060713003.html

 ジダン選手は、具体的に何を言われたのかについては「母と姉に関する非常に個人的なことだし、それに非常に激しい言葉だ」として、明言しなかった。また、決勝をテレビなどで観戦していた子どもたちやファンに対して「おわびしたい」と述べる一方、「侮辱の激しさ」を理由に「(暴力行為を)後悔はしていない」と強調した。

 おおよそ事前に報道されたり、推測されていたとおり(id:goldhead:20060711#p3)か。具体的な内容を、世界が注視する場で述べることはできまい。肉親を再び侮辱することになる。
 ジダンの行動、そして、この発言をどう受け取るか。中には「何があっても暴力はよくない、暴力行為を行った人間に発言の資格はない」というような意見もあるだろう。俺、俺はそれに賛成はできない。そのような暴力反対の非暴力主義には与したくない。では、許される暴力があるというのか。否、そういう話ではない。マテラッツィの行いまでが「言葉」で、ジダンの頭突きからが「暴力」、その切り方に違和感を覚える。(ジダン側の発言を信じるとして)マテラッツィの行いからが「暴力」ではないのか。俺はそう思う。
 ここからは一般論。いわゆる「言葉の暴力」は「肉体的な暴力」に比べて小さなものか。俺は、違うと思う。肉体に与える暴力で取り返しのつかない障害をおうことがあるように、言葉一つで誰かの心に取り返しのつかない傷をつけられる。言葉一つで人が死ぬこともあれば、生きることもある。みんなによってたかってリンカリンカと歌われて、急にボールが来たので対応できなくなってしまったフォワードだっているかもしれない。ある種の肉体的な暴力否定では、そのことが見落とされて、なぜか唯身論(?)のよう。心や脳が置き去りにされている。人格が置き去りにされている。どちらの傷が大きいかは断じられないし、当然ケースによってそれぞれだが、少なくとも同じカテゴリであっていい。肉の暴力も心の暴力も同じ暴力だ。
 今回の件に戻る。だから俺は、喧嘩両成敗のようにこの件(ジダンの発言にとりあえず拠るとして)を見る。先に殴ったのはマテラッツィだ。ジダンは頭突きを見舞った。成敗するなら両成敗(五分五分かどうかはわからないが)。……が、それで割り切れるほど現実の事象というのは簡単ではない。マテラッツィはこう言うかもしれない、「‘ユニフォームなら試合後にくれてやる’という見下した物言いに深く傷つけられた」と。心の失血量ははかれないし、医師が傷口を見ることもできない。そしてさらにジダンは言うだろう「先に乳首をつねってきたのはマテラッツィだ」と。ユニフォーム発言と乳首をツネ様、テミスの秤にかけても結果が出るものだろうか。そもそも、ある方がボールをゴールに入れようとして、もう一方がそれを邪魔しようとする。それが争いのもとなのだ。だったらもうみんな、日曜日の夜なんかにはそれぞれの家でくつろいで、メガロマンのDVDでも見ていればよかったのだ。そもそも、はじめにボールを蹴り始めたやつは誰なんだ? こんなこと考えていたらいい加減に腹ぺこだ、お昼ご飯にしようぜ。

http://germany2006.nikkansports.com/paper/p-sc-tp3-20060713-0016.html

 ヤツだけは許せないわ! ジダンの母マリカさんがマテラッツィを、これ以上ない言葉で批判した。決勝戦当日に体調を崩し、入院したが既に退院。英紙ミラーが12日付1面で報じたところによると、友人に対し「マテラッツィにはマイナスの感情しかない。彼が言ったとされることが真実であれば」とした上で「I want that Italian's b★lls on a platter」(ヤツのキンタマを料理してやりたいくらいだわ」と、まくし立てたという。

 うはは。まあ、この問題、マルセイユの悪童(……というとモロにシリル・アビディか。でもまあ、映画『TAXi』シリーズとかのイメージは強いわな)とイタリアの乱暴者の場外バトルくらいに見た方が面白いのも確かだ。どうせなら、それぞれの一族連れて公開バトルでもいいぞ。舞台は中立がいいな、アルゼンチンはマラドーナの番組あたりでどうだ?