俺の頭は変になっている、わかるか?

http://movie.maeda-y.com/movie/00768.htm

これまでのジブリの短所を引き継ぎ、かつ長所を捨てた

 ジブリの評価が崩れつつある。こないだの『ハウル』(id:goldhead:20060722#p1)でもさんざん予告が流れていたが、『ゲド戦記』の話だ。これがどうも、試写会などを見た人の評価が、ひどいことになっている(http://moviessearch.yahoo.co.jp/userreview/tymv/id324031/)。また、ひどいことになっているということが評判になっている。そんなにひどい出来なのか、わかるか?
 わからん。俺はもちろん、試写会など見ていない。見ていないところで作品の良し悪しなどは言えるはずもない。言えるはずもない俺が、それら酷評の大放出を眺めてどう思っているか。俺は俺の心に気づいた。それは「超おもしろいじゃん」だ。わかるか?
 いろいろの角度から放たれる批判、皮肉、あるいは罵詈雑言、これを読む俺は確実に楽しんでいる。もとよりアンチジブリなどではないし、かといって熱心なジブリファンというわけでもない。自分の趣味とは深く関係ないところの話だ。関係ないところで野次馬として、おもしろがっている。
 そうだ、とにかく俺の性根は腐っていて下劣だ。それはわかる。そういう人間が、人間が人間を、人間が人間の作ったものをほめたたえるのを見ても、喜ばない。そういう流れはあるように思える。それに、叩かれているのは大ジブリだ。俺は判官びいき気質が強いが、ジブリ宮崎吾朗を判官とは思えない。おまけに、世襲制批判となると、錦の御旗我らにありと気力充実、鳥羽伏見でも負け知らずの毎日です。それに、‘他人の不幸は蜜の味’という、この人類誕生からの真理あるいは心理も作用しているかもしれない。俺のような下流の民は、プーさんと同じくらい蜜に餓えている。上の方で糞まみれになった何かが流れてくると、下流ではそれが蜜になる。蜜の流れる博士もびっくりだ。
 他人を悪口を話すのも楽しい。それに似ている部分もあるか? 誰かを貶めて、自分を安全地帯に置く。おまけに同じ評価を下す話し相手とは連帯感のようなものが生まれる。誰かと手っ取り早く打ち解ける方法は、共通の敵について悪口を語ることじゃないかと思うが、どうだろう。それでできるのは、結局のところろくでもない人間関係だろうとは思うが、どうだろう。まあ、このケースで、俺は語り合っていない。見るばかりだ。ゆえに、語るよりさらに安全地帯にいるというわけだ。インビジブル&インビンシブル、傷付く心配がない。わかるか?
 あるいは素直に、褒め言葉より貶し言葉の方が、言葉として面白いだけかもしれない。何かをほめたたえるところに笑いは想定しにくい(それを馬鹿にするというのは別にして)。何かを攻撃する言葉の方が、なにか躍動していて、活き活きとしている。今日も日本語の悪態はかがやいているか?
 ……かようにして、俺はネット上における『ゲド戦記』評を、無責任に楽しんでいる。では、『ゲド戦記』自体についてどうなのかといえば、やはり「見ていないから何も言えない」としか言えない。この点に関してはフラットなつもりだ。つもりなだけで、ジブリや、これを見て面白いと思った人にとってはろくでもない野郎だろうし、見て素直に酷評した人にとってもコウモリ野郎だろう。
 ああ、でも、一つだけこの作品に関する部分で評価できるところ、したいところがある。主題歌だ、手嶌葵の「テルーの唄」だ。桜木町のドンキでのことだ。俺を圧迫する陳列物、耳を覆いたくなる轟音。その中で、有線放送かなにかだろうか、ふいにあの曲が流れたのだ。別の音楽の波のなかにあって、あの曲だけはスッと入ってきて、心が洗われる思いをした。これは本当の話だ。俺は、何も買わずにドンキを出て、トポスで夏物のソックスを買ったのだ。わかるか?