それでもやはり疑問で終わる

http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20060815-76031.html

 15日夕、山形県鶴岡市の元自民党幹事長加藤紘一衆院議員(67)の自宅兼事務所から出火、木造2階建て約340平方メートルを全焼した。建物の近くで、男性が腹から血を流して倒れており、病院に運ばれた。意識はあるという。

 失礼を承知で言うが、加藤紘一は不幸が似合う顔をしている。家に帰ったら自宅が灰になっていた、そのシーンに似合う男である。同じYKKでも、山崎拓にはああいったスキャンダルが似合う男だし、小泉純一郎は任期終了間際に靖国神社に参拝するのが似合う男である。
 ……と、無理矢理つなげてみたが、ホリエモン搬送以来のヘリコプター乱れ飛び、各局生中継(withoutテレビ東京)の様相。とりあえず、自らのスタンスを洗い出しておくくらいはしてもいいんじゃないのだろうか。適当に垂れ流してみよう。
 騒ぎすぎの印象は受ける。今日一日のことばかりでなく、あまりにも大きくなりすぎているのではないか。そもそも中国や韓国がここに注目を始めたのは、日本の新聞社もしくは社会党のご注進だという話すらある。ちょっとつついて大騒ぎになるのであれば、それを利用しないボンクラもおるまいて、反対も賛成もない。だいたい、どこまでが私人でどこまでが公人だとかいう人格分裂的なわけのわからない禅問答、これもわからない。私費・公費でいえば公費のかかる部分もあるのは確かだが、さりとて総理大臣がふらりと一人立ち寄るわけにもいくまい。政教分離。政治が特定の宗教に肩入れするべきではない。靖国神社の賽銭の額は増えたのか。増える一方で、蛇蝎のごとく忌み嫌う人間もいるのではないか。これでプラマイゼロは亂暴な算数か。しかし、「公約」と言ってしまった小泉はよくない。心の問題と言うのに説得力がまるでない。しかし、日本テレビだったと思うが、「違憲判決が出ている」というような報じ方もダメだ。裁判のメーンの判決以外を拾う、掛け逃げ的なインチキだ。裁判のインチキといえば、東京裁判はどうなのか。俺はあれをインチキと思う。平和に対する罪というのならば、東京大空襲や原爆はどうなる。誰か裁かれたのか。大義名分のお題目だけじゃないか。だから俺は、いわゆるA級戦犯を特別視する根拠を認めない。しかし一方で、彼らの中には確かにA級戦犯も居たはずだ。あるいは、彼ら以外の、戦後も要職についた人間の中にもいるはずだ。大事な試合で采配ミスをした指揮官。あまりにも卑俗なたとえだが、そういう今日的な意味での戦犯、すなわち負けの責任者としての戦犯。しかしそれは、日本人の手によって落とし前をつける話。おかしなラベルを貼られて、勝者によって勝手に吊されていいわけではない。あるいは、大西瀧治郎や私兵特攻の宇垣纏(……は戦争終結を知らぬ若い兵隊を道連れにしたか)のような自裁。それは別の話として、とりわけA級戦犯を合祀だ分祀だという議論は根底からよくわからない。たとえば、戦死者として祀られている中にも、あるいは中国人や朝鮮人に非道いことをしたろくでなしが混じってる可能性だってあるじゃないか。それをどうやって分けるのか。神道的に分けられる、分けられない、それ以前に、そもそもそこに個々人の死後の魂や霊の存在を、信者以外が認めるのも無理があるのではないか。もっと大まかなもの、大ざっぱなもの、矛盾があってもそれを飲み込むようなわけにはいかないのか。話は先頭の方に戻って、中国と韓国、あるいはそれ以外の国の、戦争によって被害を受けた人々の話。たとえそれぞれの国家がこの問題を外交利用、あるいは国内統制の手段としようとも、彼らの中の真摯な思いは認めるしかないと思う。認めるのならば靖国は無くすべきか。いや、それも違う。……、難しいな。あちらが立てば、こちらで立たないところもある。人間と人間は結局分かり合えない。自分の息子が戦災で障害を負ったことで、驚くほど深い恨みをアメリカ人に抱いている老婆を知っている。国と国、あるいは大部分の国民同士が悪感情を抱いていなくなっても、すべての思いを掬い取ることは永遠にできない。たとえ靖国が灰となり、すべての日本人が腹かっさばいて死んだって、日本人を許さないという人間だっているだろう。しかし、その声に応えるわけにはいかない。当たり前だ。いや、そこまでは言っていない、首相が参拝をやめればよい、という声もあるだろう。しかし、それで終わるものだろうか。あるいは、そこで止めたところで、止めた方のポーズに過ぎない。ポーズでなく、実際のところを見てくれ。日本のどこに軍国主義の復活がある、侵略の意図がある、はっきりいってそんな元気はないぞ。いや、元気の問題じゃあない、とにかく一応は、盟友のアメリカはお盛んではあるが、日本自体は今のところ戦争をせずに大戦後やってきた。そこんところを見てくれ、と。わからなかったらそれでいい。それは対話の終わり、コミュニケーションの断絶だろうか。しかし、対話やコミュニケーションで相互理解などできるものだろうか。もっと、公約数的な、大ざっぱな話でしか大きな枠組みは動けないのではないか。たとえば、靖国参拝を公言してきた人が首相になっても構わないと、日本人は選挙で答えを出した。しかし、彼を支持した人の中にはそれによって支持を決めた人、それに反対だけれど他のことを重視した人、それについて関心のない人、いろいろいるだろう。たぶん、二番目と三番目が多いのだろう。ともかく、それが問題になって選挙に負けることはなかった。しかし、勝たせてもらった党の中にも、それに反対する人間だっている。この混沌が、外国にとって何が危険なのだろう。真摯な声に対しても、日本は危険でないという事実をもって断絶するしかないのではないか。しかし、あるいは、真摯な声を認めた俺は、彼らに頭を下げることができるのか。正直、下げることはできないだろう。彼らの思いを認めながらも。しかし、できなくとも、俺は今、日本の繁栄の中に生きてきて、先人たちの遺してくれたものを享受しているのも確かだ。負債も遺産のうちだ。いいところだけ取るわけにはいかない。いかないが、頭は下げられない。それでもわずかな胸の痛み、かすかな逡巡があったとして、その矛盾があって人間は当たり前だというのは、開き直りだろうか? 靖国に参拝した小泉首相が、戦没者追悼式で述べた言葉は矛盾しているだろうか? 矛盾していてもかまわなくないか? 賛否両論の両論だけですべてのカードが出そろったと考えるのはおかしくはないか? 矛盾した個人で構成された国の代表者に矛盾があって、それでも大きく間違った方向になっていないなら、外交政治的には黙って騒がせておいて、個々人には友好的な断絶で構わないというのはおかしいだろうか?