アジアカップ:日本対イエメン

 「あなたがたの中に、イエメンがどこに位置するのか知らない人がいたら、いますぐ地図帳を開いた方がいいと申し上げたい」と、試合開始前に脳内オシムがつぶやいた。俺はすぐに地図帳を開いて位置を確認した。イエメンはアラビア半島の南端にある。アラビア半島の南端にある国と、「アジア」杯を掛けた戦いの一つをする。「アジアという概念はヨーロッパの影に過ぎない」という、西洋人の意識について考えを巡らせる。あるいは、我々にとってアジアとはどこからどこまでなのか、それもはっきりしない。
 などと関係ないところを巡らせていたら、試合前の国歌タイムになっていた。まずはイエメン。イエメン国歌も、ちゃんと日本が用意した歌手が独唱するのである。これが国際試合の通例なのかどうかは知らないが、いいホスピタリティだと思う。思ったのだが、国歌独唱を聴くイエメン選手たちの表情が微妙になっていく。どうも彼らの口と歌が合わないなと思っていたら、しまいには笑いだし始めてしまった。
 ひょっとしたら、彼らにとって、この独唱アレンジがとても奇妙に感じられたのではないだろうか。あのアレンジが、元の曲のイメージ(http://www.national-anthems.net/countries/index.php?id=YM ←このリンク先にあるように、歌詞も勇壮なものである)にあわなかったのかもしれない、と。たとえば、日本代表がどこかに遠征してみたら、アラビア風の君が代や、アフリカナイズされた君が代で出迎えられた、みたいなものである。あるいは、国内における中居君の独唱であるとか、日野皓正による有馬記念の独奏など。まあ、それでも、怒り出したわけでなく、笑ってくれたならそれでいいじゃないか。むしろ、そのくらいの方が世界は楽しい。
 ……などというのは完全に俺の想像であって、イエメン選手たちがまったく関係ないことに笑い始めていた可能性だって十分にある。いつかイエメン人の留学生が学費を稼ぐために民芸品を売りに来たらきいてみよう。
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 さて、肝心の試合だ。前半は、どうにもピリッとしないように見えた。テレビの実況は「パスの出しどころがない」などと言うが、だらだらとボールを回すシーンが多い。ワンタッチでパパパっと仕掛けるシーンもない。素人的には、いろいろ走ったり、そういうことして出しどころを作っていくのが、「考えて走る」とかいう標語でないのかと思ったが。あるいは、右サイドなら右サイドからの攻撃と決め打って、何回でも同じ事を繰り返せば点は入ったんじゃないのか、などと思う。何度でも同じシーンは作らせてくれそうなだけに。ああでも、枠を外したシュートもたくさん打ったけど。ということで、勝手な素人目では、前半はジーコジャパンと変わらないように見えた。まあもちろん、チーム自体が準備不足の急ごしらえで、オシムの教え以前なのだから仕方ない。
 後半もなんとなくそんなんで、案外このままか、などと思ったくらい。しかし、そこで後から入ってきた羽生直剛や佐藤ツインズなどで動きが変わったか、二点もぎ取っての勝利。羽生ががーっと突っ込んでいったりして、こういう感じでどんどん行けばよかったのに、などと思う。田中達也などもファウルをもらうようになっていたが、最初の方は何か、とてもキレイに点を取りに行っていたように思えた。それを考えながらやっていて、前に進めていなかったように見えた。
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 自由を与える、という点でジーコオシムは似ていて、現時点での、まだ第一歩を踏み出しただけのオシムジャパンは、まだジーコのそれと同じなのかもしれない。なんとなくの、俺の印象。トルシエは、テストの前に丸暗記させて、とにかく答えを書かせた。ジーコは、賢い子どもを集めて、テストを受けさせればなんとかなると思った(しかし、どうもそうではないらしいので、あわてて一夜漬けで簡単なドリルを課したりした。シュート練習)。オシムは、生徒たちが自分自身で応用問題が解けるように、その筋道から教え込んでいく。だから、トルシエだったら、引きに引いたイエメン相手の攻略法を手取り足取り指示して、もっと楽に勝てたんじゃないだろうか、とか。
 オシムを美化しすぎだろうか。まあ、いずれにしてもサッカー知らずの印象だ。でも、野球の監督の采配と比べては、試合中にできることは限られている。その場その場の判断やアイディアは、選手が負わなければいけない。その方向性や筋道から鍛える。そういうことなんだろうと、俺は思っているのだが。
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http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/kaiken/200608/at00010268.html

 私は決して逃げることはしない。(会社などから)聞けと言われた質問ではなく、皆さんが聞きたい質問をしてほしい。堂々巡りではなく、率直な質問をぶつけてほしい。日本のサッカーの何が一番面白いのか、それを書くことを皆さんは仕事にしているのではないのか?

 オシムの会見記事はやはりおもしろく、刺激的だ。マスコミもまた、それにどう応えていくか。あるいは彼らにとって小うるさいオシム、あるいは協会やスポンサーと利害が一致するやもしれず、そちらに転ぶのか。それとも、もっと高度なところに登っていくのか。俺はサッカー知らずだが、中田英寿がインタビュアーに抱いた不満もわかる。適当に選手にしゃべらせようというだけ(「悔しい結果になりましたが……?」「今後に向けての課題は?」)で、たとえそれが野球や柔道やテニスや相撲であっても、単語を一つ入れ替えるだけで通じてしまうようなものばかりだから。あるいは、そのあたりの言葉が固定化して、形骸化して、そんなものにパッケージングされているからプロ野球人気が下がってきたのかもしれない。もしも、サッカーをとりまく言葉がもっと輝いて、それが一般紙やスポーツ紙、テレビを通じて広く伝われば、サッカーにとって悪いことなどあるはずもないだろう。
 なんとなくの話だが、ミーハーは濃度に引き寄せられるのではないだろうか。ワールドカップの濃さ、日本代表の濃さ。詳しく知らなくとも何かを期待させる濃度。そういった濃さが伝わるだけの言葉、たとえばオシムの言葉にはそれがある。そういう濃度で、たとえばJリーグが語られること、それを手軽に読めること。そうなったら、多くの人が、あるいは俺だってサッカーに、Jリーグにはまらないとも限らない。