プッシー・キャット・ドント・キル・ドント・キル・ドント・キル

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 俺は道を歩いていてネコなどがいると、「ネコ、ネコ、ネコ」と呟きながら寄っていくネコ気違いなので、ネコに関する話題にもとりあえず寄りついてみる。
 坂東眞砂子という人のことはよく知らない。ただ、この人は折り合いがついていないように見える。俺は競馬をやる。俺は馬が好きだ。しかし、競馬で足を折れば馬は薬殺され、成績がふるわなければ屠殺される。ほとんどの馬が屠殺される。それはとても悲しいことだ。それでも俺は競馬が好きだ。俺の中で折り合いはついている。折り合いがついているだけであって、馬は馬、人は人、ときにひっかかることだってあるだろう。
 この坂東という人は、そういう折り合いがついていないように見える。俺も実家ではネコを飼っていた。実家のネコはオスとメスの兄姉もしくは姉弟で、ともに去勢手術をほどこしていた。何年経っても、彼らの去勢手術跡を見ては、少し胸が痛んだ。
 「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ」ということに、いっさいの反論はない。競馬も飼い猫も一方的な関係だ。人間のエゴとわがままだ。いわば無用の殺生だ。それを引き受けないやつは大嫌いだ。それを認めないのでは話がならない。
 しかし、その先で坂東さんと俺は折り合わない。いったん産ませておいて殺すことの意味がわからない。愛する親ネコに対する態度としてわからない。親ネコが小ネコに乳をやることが「生」でないとする発想がわからない。多くの野良猫に混ぜてしまうという発想がないのもわからない。それらの点で俺は坂東さんと折り合わない。
 折り合わないが、俺が坂東さんを断罪、非難できるかというと、怯む。同じ愛玩動物に対するエゴの中での分かれ道。どこか、五十歩と百歩ではないか。そういう思いもある。去勢の傷跡だ。
 しかし、やはり彼女の言うことをそのまま受け取るにはひっかかるところもある。彼女は「殺しの痛み、悲しみも引き受けて」というが、引き受けきれていないように見える。
 飼っている動物を間引く、なんていうことは当たり前に行われてきた行為だろうと思う。動物愛護なんていう近代的発想以前の話である。今でも、年代や住む土地によってはそのあたり無頓着かもしれない。あるいは、タヒチもそうなのかもしれない。俺は、それらに対してあまり非難めいたことは言わない。しかし、坂東さんは違う。動物愛護も予測される非難の声も知っている。意識している。意識した上で、新聞で多くの人にぶつけている。それで、野良猫を増やすよりも、社会の人の気持ちを害しているかもしれない。
 「私の苦しみを知ってもらいたい」。そういう声のように思える。悲痛な叫びに思える。動物とつきあうことを、結局のところ引き受けきれていない。折り合いがついているのなら、粛々とネコを殺しておればよろしい。それができない。そこが哀れだ。そういう人を見るのはとても悲しい。いっそのこと、ペットから家畜から動物実験のすべてに反対する人になってくれた方がいい。その方が、見ていて気が楽だ。
 でも、ベジタリアンになったところで、植物の命を殺す。そもそも我々は他の生命を害さねば生きていけない。そもそも、生き延びるために喰うのは許されると、誰が言った? 人間が不合理と矛盾の存在であるなんて、生まれたときから決まっていたことだ。不合理や矛盾があるからすべて許されるわけではない。正しいことが存在しないわけでもない。絶対真理でなくとも、より誤りが少ない方を選んでいくこと。多くの人やその他生命の限られた生を不快でなくしていくこと。人間には、そのくらいのことしかできないし、そんなことまでできるはずだ。だから、正しくない自分を責めることなんて必要ないはずなのだ。たぶん。