努力すれば最低限文化的な暮らしを営める社会もしくはPKD的終末を目指して

goldhead2006-12-11

http://www.nhk.or.jp/special/onair/061210.html
 ワーキングプアという言葉をはじめて知ったとき、ありがたいと思った。俺は月曜から金曜まで、季節によっては月月火水木金金で働いているので、ニートでもひきこもりでもない。しかし、正社員どころかアルバイトや派遣としての身分すらないので、フリーターとも言い難い。どうしたものだろう、と。そこで、ワーキング・プア。そうだ、これだ、と思ったわけだ。ワーキングだけど、プア。そういう実感だ。……と思っていたんだが、どうにも要件を満たすほどの低賃金ではないようにも思える。生活保護以下かといえば……ちょっとわからんが、そんな低くもないだろう。日記を振り返ればだいたい土曜日は遊びに出ているし、もちろん競馬、競馬。そんな上にNHKスペシャルの「ワーキングプア」特集など見てしまっては、とてもじゃないが自分をワーキングプアとは言えない。恥ずかしい。でも、同世代のきちんと大学卒業した人と比べれば、年収など八分の一から十分の一といったところではないか。さらに親に借金はあれど財産なし。だいたい、NHKに寄せられた声はみんな電子メールが多かったが、俺なんて自分のアパートにネット環境ないぞ(というか、地上波デジタル移行で、テレビというメディアにすらアクセスできないプアが大量に増えるんじゃにのだろうか。俺も他人事じゃないけど)。だったらなんだろう、やはり「下流」か。流れならば海へ注ぎ込む間近もあれば、平野のしばらくの間もそうだろう。で、注ぎ込まれる海って、どこ?
 たまーに、日本の福祉を批判する書き込みをネット上で見る。なにか、病人や障害者の方が得しているような。そういう人は、恵まれた中にいて、恵まれていない身内もいないのだろう。そーんなに日本の福祉は甘くない。年々じわじわ減る一方だ。得しているのがいるとすれば、病人や障害者の振りをしている人間だ。そこをはき違えてはいけない。
 自分の通勤路には二人の空き缶拾いがいる。一人は坂道のフェンスの外、草藪の中を空き缶保存場所にしている。もう一人は、電動車いすに乗っている少し若い人で、這ってゴミ箱をあさる。
 女の人だったか、学者が言っていたが、日本の生産能力からして、まじめに働いていて空き缶拾いになるのはおかしいと。だな、だな。
 でも、なんで中国人研修生があんなに。日本人の水準からすれば低すぎるところ、彼らには十分。さらに、彼らが研修によって得た技術は、やがて日本のライバルである中国に活かされる。中国製のクオリティが上がる。それでいいのか。思わず「排斥しろ!」と言いたくなる。一晩あけても「排斥すれば?」と思うのだけれど、大企業は高い賃金の日本人を雇いたくはないのかな。
 「そういうのは単純なものづくりだけだ。そんなものは発展途上国にやらせておけ」って考えもあるかな。日本はさらに高度な技術で生きるのだ、とか。でも、そういうふうに高をくくっていいのかな、とも思う。たまたま日本が先んじただけで、いずれ後の方の国も追いついてくる。「これは日本にしかできない」なんてものは、そんなに多くなくなってくるんじゃないのか。日本を日本たらしめているところの一つである日本語の関わるもの(コールセンターや印刷など)まで中国でやるようになってきている。それでも日本だけ、なんてコア・スキルなんてのは、コアだからコアであって、石油みたいに国民全体を潤すなんてことはないでしょう。やっぱり末端も国内でまかなって、何かしら循環というか繋がりがなくちゃ、あるいはピラミッド的な構造だって保たれないんじゃないのかな、とか。あと、食糧に関してはもっと深刻なんじゃないかな、とか。でも、悲しいかな、貧困層こそ国産を買えず、中国産の何かを買わざるを得ない。助け合えない。
 で、そういうのってグローバル化だとか、競争化でどうにかなるものなんだろうか。構造改革って、そういう改造をいい方に持っていくのだろうか。わからん。今のところ実感できるような競争化ってのは、潰すための叩き合いみたいなもの。たとえば公共工事、談合はもってのほかだけれど、予定価格をはるかに下回る入札ってのも怖いよ。それがソフト面なら酷いモノできたってとこで済む場合もあるだろうけど、建築物なんて危なそうだ。そのうち、現場全部外国人みたいなことになるかもしれない。
 で、叩き合いの末に大手の大手だけが生き残って、そうれでどうにかなるのかな。いまはそこに向かう過渡期で、そうなるんじゃないかと思うんだけど。そういうところが、うまいこと不況を切り抜けてきた非正社員の使い捨てをやめるのかな。やめさせるのが政治なんだろうけど、わからんね。まだ整理ついてないしね。そこんところがはっきりしてくるまで、狹間に落ち込んだ人は、とりあえず死んでくれるのを待つ、ってところか。運がなかったね、って。
 まあ、全部運だ。生まれる家の豊かさも運、家業や職と時流の一致・不一致も運、そして、生まれ持った才能も運。昨日の放送もそうだが、危惧される社会と対比して、「努力すれば報われる社会」がかつて存在したように言うのはどうかと思う。「努力すれば最低限文化的な暮らしを営める社会」はあった、ってところじゃないのか。しかし、そんなのはもっと巨大な国運に恵まれていたときだけの、一時的なユートピアだったのだろうか。
 そうだとすれば、今後の日本に必要なのは、滅び方かもしれない。たとえば夕張市。炭鉱がなくなって、市運(市の運送業務みたいだな)は潰えたはずだ。はずだけれど、身の処し方を知らなかった。いや、そんなマニュアルはどこにもなかった。だから、生きなければいけない、成長しなければいけない、ということで、結局破綻してしまった。そりゃこうしてきた政治家や役人に責任がないとはいわない。けれど、店じまいのマニュアルなんてなかったんだろう。そうしたら、大手広告代理店やコンサルの提案に乗って、成長を夢見てもしかたないところはあるんじゃないのか。国も夕張市みたいになっちゃまずいんじゃないのか。ソフトランディングプリーズ。
 しかし、日本国民は賢いから、そこらあたりにも気づいているのかもしれない。だんだん数を減らそうとしている。子供産まないようになってるぞ、と。あとは、法や政治がそれに気づき、逆の処方箋を出さないことだ。それが美しいのかもしれない。というか、たとえば産科医や小児科をいじめ倒そうとしているとこなんか、そういう方向なのかとすら思う。で、やがて日本国民一人残らずおらなんで、天地の正気のみ溌剌として晴朗の朝雲に聳える富士ヶ嶺の裾にひろごる秋津島。間違っても野蛮人どもに国土を踏ませるんじゃねえぞ、そのときは無人の野をさまようオートメーションのサムライロボットが敵を討つ。まさにラスト・サムライ