更生と更正は校正されるために構成される

goldhead2006-12-14

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2006/12/14/02.html

並木正男裁判長は、山地被告の責任能力を認めた上で「犯行は残忍、冷酷かつ非道で、被告は反省を示さず更生の期待も乏しい」と述べた。

 自分の死刑に対しての(まとまりきれていない)考えは以前書いたとおり(id:goldhead:20060621#p2)。で、俺の考えがまとまろうがまとまるまいが、人は人を殺し、吊られるやつもでてくると。
 いつも疑問に思うのは「更生の期待」とか「更生の可能性」というやつ。もしもこの山地が更正しちゃったらどうすんの? 更生できないから死刑っていうが、その先で更生しちゃったら死刑にする意味あるの? と。
 ……と書くと死刑廃止派みたいになるが、これはひっくり返しても一緒のこと。「更生に期待できるので」「更生の可能性があるので」死刑にならなかったやつが、結局更正しなかったらどうするの? また出てきて人殺したら、「更生に期待できる」って判断したやつの責任はどうなるの? と。そうだよ、少年法なのでちと違うが、この山地だって母親殺しの前科がある。それがすいすい外出てきてこれだもの。
 と、いうわけで、死刑の判断にあたって「更生の可能性」みたいな言及は必要なんだろうかね。これって馬がかけっこして、どれが一等になるか当てるのとあんまり変わらんことと思うんだが。予想はうそよってことで、あくまでやったことに対するペナルティが罰なんじゃあないのかな。可能性を取り入れるとしたら、執行猶予的なものじゃなきゃおかしいんじゃないのかね。すなわち「更生している間は死刑執行を猶予してやろう」と。そうじゃなきゃ、なーんか割に合わないような気がする。裁判のときだけ一生懸命更正の演技したやつが救われすぎる可能性がある。
 まあ、もちろん、更正なんてのは死刑の判断に関する要素のごく一部。やっぱり、したことに対する対価を払うもんだろうな。「反省しているようだが、その心を大切にして絞首台に登れ」と、そういうケースだってもちろんあろう。というか、死刑に直面させることで更生させる、なんていう考え方もあるかもしれない。
 それに、そもそも予測どころか、今そのときその当人が更生しているのかどうか、人間にとって「正しい」とはどういうことなのか、客観的にどう判断するのか、判断できるのか、それを大勢に納得させる方法はあるのか、やっぱりこのあたりは難しそうだ。法ってのは難しそうだ。