『鈴木大拙随聞記』志村武

ASIN:B000JA7I3S
……桜木町の地下古本屋、七百円。

「インドで誰でも気づくことは、各種の動物が横行することだろう。きたないといえば、それもそうだが、そんなところを見ないで、大きな牛が往来の真ん中や店先で寝ていたり、市場で捨てられているような、何かわからぬものを食べたりしているのを見るだけで“おもしろい”と思われる。
 犬を見ても見なれているので、だれも不思議と感じないが、牛がのそのそと歩き回っているのを見ると、いかにも太平との感じがする。水牛のお尻にカラスが坐りこんでいることもある。雀もいたるところにいる。そして、それが人を恐れない。
 こんなに動物が町のなか、人間の住居のなかに親しく出て、雑居しているのを見ると、インド人の動物、生物に対する心情がうかがわれて感心する。できるなら、虎でも獅子でも仲間になれば面白いと思う」

 これは俺の常日頃思っていることと一致して仕方ない。日本では町中に、人間以外の生物が少なすぎていけない。ネコ、ハト、カラスくらいでは足りない。野良馬くらいてもいい。究極的には、伊藤若沖の『鳥獣花木図屏風』(id:goldhead:20060717#p1)そのものの世界が望みだ。あと、こういう話は藤原新也なんかもよく書いていた……っけ?(id:goldhead:20050704#p2)

ともかく、酢をなめればだれでもスッパイと感じる。最後のところは感覚だ。『不立文字』だ。甘いものはなめて知れというのだ。しかし、本当に『知る』ということは、単なる感覚の上のセンスではない。感覚よりも、もっと深いところにあるセンスなのだ

 三教帰一、三聖酢をなめるの図。空海もその三つをどうかしてその上に密教を置いたのだっけ。この本の話、ほかにもキリスト教まで同じ所から出ている的な話も。一歩間違えば、既存の宗教の神様を並べて、「これらは皆一つの神をさしているにすぎず、それこそ我らが神」的な新興宗教に陥りそうだ。しかし、仏教はほかに比べて神の存在が薄いというかなんというか。釈迦なのか大日如来なのか、その必然性はほかに比べて薄いように思われる。思想、哲学のようで、そちらに特化していった結果、インドでは廃れて東に流れてきたというが、やはり一方で目に見える神様仏様稲尾様は必要なのだろうが。

「……"Enlightement"とか"realize"では、どうしても意をつくしきれませんか」
「そんなふうに訳したのではおもしろくない。やはり"Satori"のほうがおもしろい。そのものがそのものを見るということは、西洋的な観念ではいえないのだ。西洋的にいえば、そのものがそのものを離れて見るということになる。ところが、わしがいうのは、
『そのものはそのものを離れないで、その場で知る』
となるわけだ。それが一番大切なのだ。そこから何もかもみな出てくる。

 朝、歩いていて軽く狂うときに出てくる俺の疑問→「客観的に物事を見ろというが、客観的に物事を見ているとき、主(あるじ)はどこへ行ったのか?」。西洋的には留守なのだろうか。

 万有神論においては、個に内在する神がその個とつねに対立的な関係においてある。すなわち、個と神とはハッキリ二つに分かれている。しかし、仏教においては少しの対立もない。これを『華厳経』の言葉をかりていえば、『不二の法門』というのだが、二つであって一つであり、一つであってそのまま二つであるというところに、仏教の本来の面目があるのだ。これは、全が個であり、個が全であるが、個は個で、全は全であるということにもなる。

 こりゃああれか、ホロンとかインドラネットワークとか松岡正剛が書いてたやつ(id:goldhead:20050816#p3)だな、たぶん。一ではなく、不二。うーん。

『神が天地をつくった』という。神が創造者になるということは、能造と所造とが分かれるということになる。ところが東洋のほうでは、
『神がまだ道あれとも、光あれとも、何ともいわない前の神を掴め』
というのだ。神が『光あれよ』といえば、もう二つに分かれてしまう。だから『光あれよ』ともいわない、唇のまだ動く以前の神をつかめという。これは天地未分だ。それが六祖慧能
『不思善、不思悪、父母未生以前の汝の本来の面目を見よ』
ということになる。

 西洋のものには、なにか本来は一つであったものが、二つに分かれてしまい、再び一に帰そうという動きがあるように思える。しかし、「唇のまだ動く以前の神をつかめ」というのはすごいな。しびれるね。

「指鬘外道やヒトラーのような者でも、罰するわけにはいかないのだ。そういう者については、
『お前はわしらの邪魔になるし、人間としての面目を損じている。だから、とにかくしばらくの間、または永遠に、よそへ行っていてくれ』
 といって、どこかの牢獄に隔離しておくか、
『気の毒だが、お前は一人でこの牢屋にいて仕事でもしていてくれ』
 というようにすることだ。そのための経費はわれわれが税として負担しなければならぬ。われわれにも悪い点があり、悪を許す何ものかがあればこそ、指鬘外道も悪いことをしたに相違ないのだから、われわれも指鬘外道の罪を負わねばならないのだ。それを負うについての一つの具体的な方法が、所得税その他を払うということになる」

 俺は死刑について迷うところがあって、自分でもよくわからない(id:goldhead:20060621#p2)。俺は死刑にまつわる当事者でないかぎり、上の考えには納得できる。だが、果たして当事者となったらどうかわからない(……というような仮定の話は退けられるエピソードもこの本にはあったが)。当事者が上のような意見に対して納得できないとき、述べるべき言葉があるのだろうか。また、「われわれにも悪い点があり」にどうしても首肯できない人を説得する言葉があるのだろうか。前者も難しいが、後者も難しい。人間誰しもできることなら自らが無謬であり、無実であると信じたい。信じたくてハリネズミのようになっている人すらいる。その意識が自らを乗り越えて、国だとかそういうものに託されると、なおさら厄介だ。そのあたりが難しい。難しいし、やはり前者は残る。このやりとりにおいて著者は「どんなにいい太鼓でも、叩き方が悪ければ……」と、「殺人者をそのままにしておいたのでは、殺された方があまりにも可哀想です」という問いかけをしてしまう自分を責めているが、いや、著者が正しい。やはり答えは不十分だ。君子自重、自らを重んじよでは足りない。俺のような小人、無知と貧困の人が納得できるような理屈がなければならない。俺が俺を殺す者を罰せないと思えるような何かが足りない。……というほど死刑は大きな問題であるが、そうとばかりは言えない。人類普遍の刑どころか、やめている国や地域があるし、そういったところが革ジャンとモヒカンが跳梁跋扈してデカイババアがのし歩く世界にはなっていないようだ。単に、廃止賛成者が反対者を上回れば実行されてしまう。具体的な方法にすぎない。しかし、廃止されたらされたで、「殺さなくていいのか」という話に陥るだけなのかもしれないが。
 ……動物をできるだけ殺さず、動物が動物を殺さぬのが究極のところと思う俺が、人に対しては厳しいな。人間が苦手で、人間が嫌いなのだろう。

個人主義とか、自由主義とか、民主主義とかが日本に入ってきたが、これらはみんな付け焼き刃にすぎん。民主といっても、実際にはワイワイになってしまう。
たとえば、ここに偉い人がおるとする。民主主義下においては、その人も一票だけだ。わけのわからん人も一票で、わかる人も一票だ。理屈で考えれば、何も量でいわないで、質で考えなければならんはずだ。質においては大ちがいでも、政治上では同じワン・ユニットになってしまうということは、どう考えてもおかしい。これほど不均衡なことはない
(略)
だからといって、それならあの人に十票、この人には一票というわけにもいかん。標準が立てられんのだ。
(略)
人間は一人では生きていけないのだ。その点からみると、ワイワイのほうがいいともいえる。しかし、何百年かの後には、民主主義もだんだんと改善されていくことだろう。代議政体というものではなくなるかもしれん。また、代議は代議でも、何か選挙の方法が変わってくることだろう……

 ものすごくラディカルな民主主義への疑問。「これほど不均衡なことはない」って、なかなかこの「人権」と「平等」の世の中では言えないこと。もちろん、それらが「」つきだからこそ言うのだろう。そうだ、たしかにおかしなところのある民主主義。とはいえ、いい代案など、いくら大先生でもでてこない。あるいは政治というより、SF作家の領域ともいえるだろうか。

幸福とはまったく主観的なものだ

幸福というものは人によってちがうものだから、個別性は持っておっても、永続性などというものをそのなかに入れて定義づけると、おもしろくなくなってしまうのではないか

享楽というものも、モーメンタリだといえば、モーメンタリだが、そのモーメンタリのモーメントは永遠だわな

 幸福論について。決して享楽全肯定ではないのだろうけれども、幸福それ自体に高低はないという。そして、千年も一瞬であり、一瞬も千年であるという視点。享楽大好きっ子の俺としては救われるような話だ。一瞬の射精も千年の射精だ。そう思えば、惨めなこの精液製造器も報われる。
 俺がつねづね気になっているのは、オナニーやセックスの快楽、それらがよその人に迷惑をかけない範囲で、どれだけ許されるかということについて、いろいろな思想や宗教がそれぞれどのような態度をとるかだ。どうも、仏教は、東洋はそれに甘いようで好きだ。だからといって、立川真言のような左道や、本願ぼこりに陥ってはいけないというところだろうか。いや、別に俺は仏教徒かなにかになったわけじゃあないけれど。
 でも、大拙センセは「自分の幸福を他物に依存させてはいかん」とおっしゃる。酒やLSDや美容体操(←なんだろう?)のことだ。でも、こんな注釈が。

あるとき、先生は私に、
「わしもLSDを飲んでみたいと思っておる。どんな気持になるのかしらん」
と語っていた。その若さに、その探究心に、私は驚嘆させられた。

 おい、驚嘆するなや。とはいえ、快楽のためでなく、consciousnessをexpandするそのあたりが気になっていたよう。でも、単にexpandするだけでは意味がなく、中心にtranscended instinctがなければならんという。ここらあたり、六十年代という時代というもの。とはいえ、そのころすでに九十代なのだから、やはり驚嘆か。でも、渡米経験も多いし、どっかでやってたんじゃあねえか。これはもう、フィリップ・K・ディック先生との対決しかねえな。。

……って、正直、著者どころか鈴木大拙がどんな人なのか、この本でしか知らない。どうも生きながらにして国語辞典に載るようなリビング・レジェンドらしいし、名前も聞いたことあるような、ないような。、どうも著者が持ち上げのアゲアゲで今ひとつ。だいたい、この本買ってみたのも、「あれ、この人まえにNHKアーカイブスかなんかで見たお坊さんか?」という勘違いに基づくものだし(経歴見たら全然違うし、そもそも出家した坊主ではない)。でも、ともかく、どうにも難しい文章が読めなくなっている俺には、こういう入門書的というか、聞き書き的なものがしみいる。だいたい仏教ってのは如是我聞なもんなわけだし、まあ、そういうことで。
 それになんだ、やっぱりこう、キリスト教のものよりも、仏教のものの方がずっと読みやすいというか。「信じよ、されば救われん」よりも、信じてなにかしたところで「無功徳」一言の方がおもしろいというか。この本、そういえば、「おもしろい」という口にすること多かったように思えるな。おもしろいものは肯定したいな。
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鈴木大拙http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0887.html
やっぱりレジェンドやね。