YUI「CHE.R.RY」

 職場のラジオで頻繁にかかるので調べたら、auのキャンペーンソングである。俺は奇しくもauのユーザなので、無料着うたをダウンロードしてみた。着うたをダウンロードするのは、同じく無料で宇多田ヒカルを落として以来(id:goldhead:20060203#p3)である。
 この歌はいい。歌謡のことなどとんとわからぬで、正確な言葉は出しようもないが、起承転結というか緩急というか、ギアの上げ方というかそのあたりがよい。よく吹き上がるエンジンである。俺は車のことなどとんとわからぬが。それで、ダウンロードできるのはアコースティック・バージョンだが、それもよい。
 輪を掛けていいと思うのは、auのキャンペーンソング、もっと端的にいえばコマーシャルソングとしての完成度である。「ケータイ」や「メール」などの言葉一つ出さずに、しかしながらそれを思わせずにはいられぬ内容である。しかしそれが、自然な情感の中に歌われているのだからよい。
 YUIさんが誰だか知らぬ(―と書いたということは、ウィキペディアの項目くらい読んだということである)が、いずれ中古で買うつもりの買い物リストには書き加えられた次第である。しかし、この曲が今までとは雰囲気が違うという。こういう場合は難しい。俺はこれ、こういうものを求めた場合、そうでないものが主流かもしれない。このYUIさんがどうなのかはわからないが、その作り手にとって異質な作品が広くヒットする場合は間々あるように思われる。電気グルーヴの「シャングリラ」を期待してアルバムを買ったら、(時間切れ以下略
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 ここからはYUI「CHE.R.RY」の話を離れる。それの内実は知らぬ。以下一般論である。
 コマーシャリズム、さらに広くいえば「何かのための」作品は、作品そのもののための作品、作者の心のままのものに比べて一段低く見られるような風潮がいくらかあるように思う。しかし俺は、そうと限らぬと思う。そうかっちり分けられるものではないと思う。音楽に限らず、作者が作りたいものを作って、それで人が喜ぶとは限らぬ。人に届くとは限らぬ。作者が商業的な制約の中でいやいや作ったものが評価されることも少なくない(スコセッシのことかー)。いやいやに限らずとも、何らかのお題によって新たなひらめきが生ずることもあろう。制約の中の自由が自由の制約より活きることもあろう。散文詩が必ずしも定型詩より優れているわけ(時間切れ以下略