何かを知る、学ぶたぐいの読書はエロビデオ観賞と同じだろうか

goldhead2007-03-08

 何かを知る、学ぶたぐいの読書はエロビデオみたいなものではないか。エロビデオではセックスをしており、それを見る人間は童貞であれどもセックスの概要やディテールを知ることはできる。この点において彼はセックスを知らないとはいえない。いずれの本番にその知が活かせる日もあるだろう。しかし、見たそのときには自らの体験としては知らぬ。電話帳に記された電話番号は読書によって知ると言えるが、著者による知的体験が記されたものに関しては知ることは、記されたそれを知ることができても体験はできぬ。
 著者が本当に体験したと断言できるかどうかは判断しかねるところでもある。モザイクの向こう側では空振りをしているのやもしれず、その白いものは片栗粉などでできているかもしれぬ。ゴムなのに生中出しを喧伝する本を見極めねばならぬ。
 かといって、偽りのそれによって、それが偽りという理由で何ものも得られぬのか、誤りしか得られぬのか。これもまた見極めねばならぬ。生中出しが偽りであっても、巨乳は真実やもしれぬ。迫真の演技がジジイのファックよりセックスの真、真があるとすれば真に近いのやもしれぬ。とはいえ、いずれにせよエロビデオを見ただけでは非童貞になれぬ。
 ではエロビデオを見るという行為になんらかの経験はないのか。自慰によって放出された白濁液は紛れもない本物である。読書などによって何かを知り、そのときに脳内で押される「へぇー」ボタンや「ガッテン」ボタンもまた一つの現実であり、そのこと自体はそれ一つの知的体験、経験といえるのではないか。ガッテン、ガッテン。
 でも、その点において、読書や勉強にセックスとオナニーの違いがあるのか。無いと言えば無い。全てオナニーであるが、彼のオナニーは彼のものであり、彼女のそれは彼女のものである。また、映したものは映されたものではなく、記した者は記されたものと一体ではない。女優の腰使いを映そうとした意図が技術のつたなさで男優の汚い尻しか映しておらず、それを見る者はその意図の食い違いにすら気づかずに傍らの脱ぎ散らかされた下着しか見ていないこともある。モザイクが無ければ真意の伝達に近く思えるが、フレームワークによってより大きく伝達されないこともあり、モザイクのせいで映らざるをえなくなったところに真の価値がないともかぎらぬ。また、真意や価値こそが千差万別の問題点なのであり、やはりそれは送り手も受け手も異なっているが、その異なりの壁が低い、多くの人にとってよいものが映されているものこそが優れた考え、思想、エロスなのではないか。
 多くの人によいとされるものかどうかは問わず、場合によっては、ある読書によって記されたものを鵜呑みにする、鵜呑みに近く受け入れることもある、はたから見れば盲信に見えるとしても、受け入れる器は用意されねば受け入れられぬし、蓋が開いておらなければ注ぎ込まれぬ。用意するもの、蓋を開くところには能動性があり、判断する能がある。なんなら一度蓋を開けっぴろげて注水してしまった方がいいやもしれぬ。それにより蒙った過ちへの気づきによって、蓋の開け閉めも、分別も鍛えられる。朝、歩きながら脳内に以上のようなエロ妄想を渦巻かせている俺に分別はないと言ってよい。