日本人向けのニュースで日本人の乗客がいなかったことを伝えるのはいいが、うれしそうであってはならない

◆銃乱射事件、中国人の犯行との誤報発生で大混乱
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070418-00000004-rcdc-cn
◆<米銃乱射>韓国社会に驚きと懸念広がる
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/korea_south/?1176860720
 
 正直なところを包み隠さず言う。犯人の情報がほぼ確定したという報を聞き、「日本人が犯人じゃなくてよかった」と思った。大量殺人事件に、よかったことなど何一つないはずなのに、だ。
 上の記事では誤報もあって中国人が不安になっていたというが、「犯人はアジア系」の段階で、世界中の、というと言い過ぎかもしれないが、少なからぬアジア系が、大なり小なり不安を感じたろう。
 で、俺はさらに正直なところを言うと、「日本人(系)である確率は低いんじゃないのかな」などとも思っていた。選挙中の市長を射殺するやつがいたり、遺産相続でもめた相手を撃って自殺するようなやつが出たその日になんだけれども、そう思いたかったわけだ。
 冷静に考えれば、太平洋のはるか向こうで、頭のねじが外れて拳銃乱射するやつが何国人かなんてのは、俺からすればコントロールも関与もなにもできず、まったくの偶然にすぎないわけで、それが万一日本人であったところで、いったい俺になんの関係があろうか。これが例えば、在米日本人とか、まさに同校に留学中の日本人だったりすれば、同国人の兇行によって自らが偏見を受けることもあろうが、この俺といえば日本から一歩も出たことがなければ、出る予定もない。日頃アメリカ人とつきあいがあるわけでもない。しかし、それでも「日本人でなくてよかった」という発想が出てくる。
 どこの国に何色の肌でどんな親のもとにチンコ付きかマンコ付きかあるいは両方付きかで生まれるかなんてのは、まったくの偶然に過ぎない。のだけれど、やはりその出生自体、そして育っていくうちに自然と生じる縁というものはなかなかに太く強い。それらはかりそめのものだと見なそうが、縁の網が無ければ凡夫、居場所無くして真っ逆さまだ。で、自らと何か概念との網の長さというのもまたそれぞれで、国や民族というのはなかなか微妙な距離があるように思える。たとえば俺もアジア系には違いないが、<アジア系の犯行>はあまり近くない。さらには、「犯人は男か。同じ男として……」というのも出てこない。とはいえ、俺の置かれている立場が在米日本人などであれば、否応なく髮や肌や目の色が意識されるのかもわからない。また、事件の種類や身近さによっては「男であること」が意識される場合もあるだろう。
 究極のところでいえば「人類皆兄弟」、あるいは「山川草木悉皆兄弟」でいければいいのかもしれないが、肉を食おうが草を食おうが兄弟食らいであって鍋の中で豆在釜中泣なのだが、その泣きの矛盾飲み込んで生きていくのが人間という了解はやはり一つの見方でしかなく、そもそも世界が皆兄弟で作られていない宇宙創造からの価値観の違いもあろう。宇宙人が出たら地球人という網が各人に強くなるかもしれないし、外圧によって内が一つになることもあるが、それでもやはりこの村ととなりの村あり、地域、地方あって、さらには資本家と労働者、若者と老人、モテと非モテ、巨人ファンと阪神ファンなどという土地を越えたような網も張りめぐらされ、宇宙人がなんぼのもんかということだろう。
 しかし、それぞれの網が一概に否定されるものかといえばそうでもなく、それが排他性や先入観による差別に繋がる可能性がある一方で、「□□□人として恥ずかしくない行動を」というところから出てくる倫理性や、「せっかくここに来てくれたのだから、悪い思いはさせたくない」というホスピタリティに繋がることもあるだろうし、それらは打算の場合もあろうが、けっこう人間の根っこから出てくるようなものにも思える。
 自分の偶然に関するいいところどりばかりであってはいけないし、それは他が許さない。一方で、今の自分が得ている境遇の悪いところばかり見て、受けている恩恵を無視するのも悪いだろう。そのあたりのところを意識した上で、自らを取り巻く網を意識することは必要なことのように思える。あるいは、多民族国家などではそういったことが日常の隅々に現れるのかもしれないが、そのあたりのことはわからん。いずれにせよ、根っこのところがまったくの偶然に左右されるところのものはそうであると忘れず、微妙な綱渡りをしていくよりないように思える。