電車中一部始終

 俺は疲れたので目を閉じていた。自分から目を閉じていたので、眠りに落ちたわけではなかった。眠りたいくらい疲れていたけれど、意識はあったから寝てはいなかった。寝たふりをしようとしてしているわけではないけれども、眠っていないのに目を閉じているのだから、寝たふりと思われても仕方ないところだった。
 俺は疲れて目を閉じてはいたけれども、意識はあるし、万が一本当に眠りに落ちて寝過ごすことは怖かった。駅に電車が滑り込んで、一応目を開けてどこの駅か確かめるが、そのときの俺の様子はいかにも寝過ごしかけた風で、この点は寝たふりをしていたと自分でも言えると思う。
 そんな二駅目で、目の前に女が立った。女の腹が少し出ているように見えた。全体のバランスはわからず、腹だけ目に入った。一見してわかるマタニティドレスではなく、白と黒の派手な柄の、なんという種類か女の服に疎いからわからないが、服だった。もちろん、妊婦か? とも思ったが、単に太ってるだけの女のようにも思えた。判断尽きかねた。車内はやや混んでいたから、席をゆずるそぶりを見せず、降りる駅の出口方面に車内移動するふりをするのは無理だった。俺が降りるまでに、あと三駅はあった。
 少し目を開けてもう一度確認しようとすると、意外なものが目に入った。車内は少々混んでいるのに、向かいの座席の左の方に、ぽっかり一席空いているのが見えたのだ。この目の前の女が妊婦であろうが、ただ太り気味なのだろうが、近くに空いている席があるのに座らないのは彼女自身の判断でないのか、と自分に言い訳しようとした。しかし、気づいていないのかもしれない。とはいえ、妊婦に席が空いているのを指し示すのはおかしいし、妊婦でなければなおさら意味がわからない。
 などと考えていると、目の前の女の膝が俺の膝に当たった。これはなんだろう。偶然のアクシデントなんだろうか、それとも席を譲ってほしいという合図なのだろうか。しかし、座りたいのなら、ちょっとまわりを見回せば、一つ空席があるのに気づくだろう。
 とどめだ。その女が一人おいた隣の連れ(ちらっと見て確認した。つり革も混み気味だったのだ。けれど、向かいの左の方に一個席の空きはあったのだ)としゃべったのである。何をしゃべったのか? 俺にはわからなかった。まったくわからなかった。何語なのかすらわからなかった。もうお終いだ。なんの判断も下せない。俺は俺に向けられた俺のための恥辱にまみれつつ、あと二つ、たったあと二つの駅が来るのを待った。
 ホームに滑り込むか込まないかで、俺は席を立った。女の姿をろくに見られなかった。妊婦なのかデブなのかわかりかねた。すれちがった印象は、ガキの使い板尾の嫁のようだったが、妊婦なのかデブなのかわからなかった。妊婦ではなかったと納得させることもできそうだったが、それが言い訳にすぎないとすることも、同じだけの可能性にすぎなかった。
 あの車内でも南泉斬猫。猫は今までも斬られ続けたし、今日も斬られるし、明日も斬られる。俺は今まで猫を斬り続けてきたし、今日も斬るし、明日も斬る。俺は今までも斬られ続けてきたし、今日も斬られるし、明日も斬られる。死ぬときに秤を見れば猫の死骸が重すぎて話にならない。取るに足らない些細な分別、大きな分別、二元論に絡め取られて、つまらない表象を食って食われて、死骸ばかり積み上げる。閃電光、撃石火の機なく、三尺の剣振り回すばかりで面白くない。今後はどんなに疲れていても、混み気味の電車では席に座らぬようにしよう。