大浜田だよ!

 壁の薄いアパートゆえ、夜中に大声で笑うわけにもいかず、自分の手首を噛んでこらえた。昨夜の「ガキの使い」の破壊力は、それだけすさまじかった。「頭がおかしい」としか言いようがない浜田雅功のバイオレンス、そして執拗な乳首責め。さらには映像のスペクタクル、すなわち、山崎の体が膨れあがって、カエルのように破裂して死ぬかと思ったら、ぶるん!と青い風船そそり立って、もう、あれは奇跡的だ。そしてソフトに乳首責め。参った。松本人志もこんなのをカンヌで見せたれよ(注:『大日本人』観てないので、「こんなの」だったかもしれんですが)。
 ……ってね、最近ちょっとオッサンになってしまって、別に子供がいるわけでもないけれども、ちょっと芸人の暴力に引くところが出てきた俺なんだけれどもね。でもね、ここまで突き抜けられると、まあ降参するしかないかな、と。そりゃもう、田中に対するゴルフスイングなんて単なる暴行だもんね。でも、これはありだよ。笑えたから。
 もっとも、俺の中で今回のが「あり」(笑い−暴力>0)なだけであって、その尺度はひとそれぞれ(というか、昨日の乱暴さは、最近俺が引き気味のやつより強烈だったのだから、人一人の中でも尺度は難しい)。ドン引きしたりする方が普通かもしれん。と、それを普通とすることが正論と見なされ、テレビの規制も強くなると。でもどうだろうね、昨夜のはともかく、それを許容して笑えるラインと、正論を主張するラインとの線引き。どうも、数的には少数正論が勝っているようにも思える。一方で、それは数で論じられるものなのかどうかわからん。あるいは、そういった正論に、立ち向かえる反論は論の上で成り立つのかどうか。それが表現の上でしかできないことだったら、それは不利で不幸な戦いかもしれない。しかし、それこそが表現、芸術の歴史だろうか。違うか。まあ、どうでもいいか、そんなこた。