『臨済録』朝比奈宗源訳注

 伊勢佐木町の古本屋、古い岩波文庫の棚で発見したの。1981年31刷。スタイルは、上段返り点付き漢文、下段に書き下し分、訳注を挟んで現代語訳と、先に買った無門関 (岩波文庫) [ 慧開 ]と同様なんだよね。
 臨済宗臨済臨済の喝の臨済ってわけ。今まで読んだ本にも「赤肉団上の話」とかでいろいろ出てきたけどさ、ここで一つオリジナル的なところを当たってみるか、と。で、なんつーか、やっぱりすんごいね? 問答みたいなののミニマムさには参っちゃうって感じ。喝、喝、一喝、すぐに打ったり打ち返したり、座を降りたり。ハイスピード。フラッシュ、フラッシュ、電光石火。

師が僧に問うた、「どこからおいでたか」僧はすぐに「かーつ」と一喝した。師は会釈して僧を坐らせた。僧は擬議した。師は棒で打った。
師は僧がやってくるのを見て、払子をすうっと起てた。僧は礼拝した。師はそこで打った。
また別の僧がやってくるのを見て、払子を起てた。僧は見向きもしなかった。師はその僧をも打った。

 打つっていっても、いいぞって意味で打つのと、そうでないのがあるらしくって、そのあたりの消息は禅者にしか感じえないものなんだろうね。例えばドリフのコントとかで、いかりや長介が師匠さんで、他のメンバーが修行中の小僧で、小僧がなんかいたずらして、長介が打つじゃない。ああいう方が、よっぽど道理の中で展開してるんだよね。
 普化の話もすごい。

ある日、普化は僧堂の前で生の野菜を食べていた。これを見て師は言った、「まるで驢馬のようだな」普化はそこで驢馬の鳴き声をした。師は言った、「この泥棒め!」普化は「泥棒!泥棒!」と言って立ち去った。

 この泥棒ってのは「賊」の訳だな。禅のなかの「賊」とか「賊機」って特別な意味あんのよ。「柏樹子の話に賊機あり」ってね。でも、上の話なんなのか、分別の分別ではわかんねえよな。でも、こういうのを南泉に言わせると「すばらしい駿馬と駿馬の蹴り合いのようだ」ってことになっちゃう。

 鳳林和尚を訪ねる路で、一人の老婆に出会った。婆「どちらへいらっしゃる」師「鳳林へ」。婆「鳳林和尚は不在(るす)ですぞ」。師「どこへ行かれたか」。老婆はさっさと行こうとしたので、師は「ばあさん!」と呼んだ。老婆が振り返ると、師はそこで打った。

 これなんて通り魔ならぬ通り禅? でもさ、禅の公案やなんかのなかの老婆って、いきなり金剛経について旅の僧を試してみたり、いきなり趙州に勘破されたり、なにか特別な意味があるのかなぁ。
 まあ、そんなこんなだけれども、やっぱり一番俺が好きなのは「示衆」の演説、って、演説じゃなくて説教だけど、それの勢い、パワーなんだよね。なるほどこれが臨済将軍の風かって、ジェネラルですかって。また、それをこの生きた現代日本語にしてみせた、朝比奈老師って、別に知ってるわけじゃなくて、秋月さんの本なんかにもしょっちゅう出てくる、この禅僧の凄みなんだろうね。なんという名調子。

 今日、仏法を修行するものは、何よりもまず真正の見解を求めることが肝要である。もし真正の見解が手に入れば、もはや生死に迷うこともなく、死ぬも生きるも自由である。偉そうにする気などがなくとも、自然にすべてが尊くなる。修行者よ、古からの祖師たちには、それぞれ学徒を自然の境地に導く実力があった。わしがお前たちに心得てもらいたいところも、ただ他人の言葉や外境に惑わされないようにということだ。平常のそのままでよいのだ。自己の思うようにせよ。決してためらうな。このごろの修行者たちが仏法を会得できない病因がどこにあるかといえば、信じ切れないところにある。お前たちは信じ切れないから、あたふたとうろたえいろいろな外境についてまわり、万境のために自己を見失って自由になれない。お前たちがもし外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖師であり仏である。お前たち、祖師や仏を知りたいと思うか。お前たちがそこでこの説法を聞いているそいつがそうだ。ただ、お前たちはこれを信じ切れないために外に向かって求める。たとえそんなことをして求め得たとしても、それは文字言句の概念で、活きた祖師の生命ではない。取り違えてはいけない。お前たち、今ここで、して取れないなら永遠に迷いの世界に輪廻して、愛欲にひかれて畜生道に落ち、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。お前たち、わしの見解からすれば、この自己と釈迦は別ではない。現在、日常のはたらきに何が欠けているか。六根を通じての自由な働きは、今までに一秒たりとも止まったことはないではないか。もし、このように徹底することができれば、これこそ一生大安心のできためでたい人である。

 うーん、このあたり、盤桂禅師と同じこと言ってるんだよな。盤桂禅師も、臨済や徳山のときにはそういうやり方でやったまでで、そのあとの今、今さら同じことをする必要がないとか言ってた。修行もいらん、不生不滅、不生の禅。あとを継ぐものがいないのも、ちょっとわかるような気がするラディカルさだよね。でも、お前だ、お前が息するごとに出入りするお前のお前だ、操り人形を操る俺の、俺だ。俺が牛の足跡を見るに、それなんだろうと、思うよね、如何。