内心の自由というのがよくわらない

 今朝の神奈川新聞の一面横のインデックス、「内心の自由はどこへ」とあった。記事開いてみれば、国旗・国歌・起立・不起立・斉唱・不斉唱の話。その話だが、今はどうでもいい。「内心の自由」ってなんだ? それがよくわからない。
 内心、心の内。内心がどこかへ行くとはどういうことだろうか? 自由でない内心がありうるのだろうか? そこがわからない。内心の自由ではなく、内心は自由、なのではないだろうか? 面従腹背の腹の方。記事の例でいえば立ったり座ったり、歌ったり歌わなかったりするのは面の話ではないのか。それがわからない。教員たちに白状ガスを吹きかけて、言え、言えと言ってみたり、教員たちの電脳障壁をクラッキングして中味を覗いてみたりしたわけでもなければ、ルドヴィコ療法によって思想改造したり、ゴーストハックをして記憶改造したわけでもない。内心を発露させた外の話ではないのか、面の話ではないのか。
 面を傷つけられれば、腹の虫はおさまらないかもしらん。しかし、それを言い出したら、みなの内心の自由などというものは、どこもかしこも衝突事故で、そもそもそんな自由がどこにあり得るのかわからない。内心に直接操作するもの以外は、面と面、外のことなのではないのか。表現される外と外の対話、戦いであって、内心は直接関係ないのではないか。
 わからなければ検索する。やはり「内心の自由」というと、法学、憲法ということになるようだ。わからん。
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/13.html

そもそも「思想・良心の自由」を保障した趣旨は、その人が自分の考えをもつごとによって、その人らしく、自分らしくありたいと思う気持ちを、尊重するところにあります。とすると、「たとえ内心でどのように思っていてもいいから、とにかく起立して歌いなさい」と強制することは、君が代をこころよく思っていない人にとっては大変な苦痛ですし、自分らしさを強制的に奪われることになってしまいます。

 これが面腹一元というか、外の制限即内心の制限とする考え方だろうか。しかし、これで疑問に思うのは、この考え方は「国旗・国歌とか」だから成り立っているのか、それともどういった「自分らしくありたいと思う気持ち」にも適用されるのかどうか。人の内心などというものは、決してご立派なものばかりではないだろう。百科事典50冊分の自分思想体系に基づいて「女子はハイレグブルマーで授業を受けるべき」という教員の自分らしさは認められるのか? 
 いや、このような極端な例を持ち出すのはアンフェアかもしれない。しかし、どうもそもそも内心というとそのくらい極端なもののじゃねって思える。「その思想が表現活動や行動に表れて、他人に迷惑をかけるようになると話は別ですが」っていうけど、その別か否かはいかなるステージ、いかなる立場で論じて、決定されるのだろうか。外にひりだしてみて共感を得られたり、歴史的な意味合いがあったり、思想、学問上価値ありげなものだけが「内心」というと、ちょっとどうもという気がする。それって内心の自由、自由な内心か、と。もちろん、全てが相対化され、善悪も道徳も反道徳もなく、いかなる正邪、異常正常もも判ずることがかなわん、などというつもりはない(その時代や社会によって一定の基準、建前、フィクションを設定することはできるでしょう、と)けど、内心、ことが内心だけに。
 いや、ちょっと待て、別にこの引用部分は「内心の自由」の趣旨は、とは言ってねえか。でも、「まさに内心の問題です。憲法では「思想・良心の自由」として保障されています」としている箇所があるから、ほぼ同義として考えていいのだろうか。 
 ……いや、俺として気になるところは、あくまで「そもそも内心は保障されたりされなかったりして、あったりなかったり与えられたり損なわれたりするものなのか(洗脳や自白剤を除いて)」ってとこだな。他に検索してみよう。
http://uno.law.seikei.ac.jp/~annen/con06.html
 学生向けの資料かなにかだろうか。削ってもトップがわからない。それはともかく、この二段落目の「内心の自由を保障することは、法的にはそもそもナンセンスなのではなかいか、という疑問が古くから出されてきた」って、この疑問が俺の疑問だ。なんか、そういう疑問があるとわかっただけで満足……しちゃいかんか。
 で、「第一」で述べられていることは、俺も想像したSFじみた可能性のこと(自白剤やマインド・コントロールは現実か)。「第二」はそもそも内心は知れないから、(法律で語られる内心の自由の)問題は振る舞いだ、ってことか。それでさっきの考えも出てくるってところだな(でも、憲法19条は思想及び良心の自由は、これを侵してはならないであって、どっから内心が出てきたんだろう? そもそも)、「第三」は沈黙の自由て……、なんか新しいのでてきた。なんかなるほど、謝罪広告とその拒否とその強制なんかの話は面白そうだが、時間もないのでやめ。