広島東洋カープの敗北

goldhead2008-04-02

(注)感情にまかせて不愉快をぶちまけますので。

 大事な流れを手放してしまったのは、一回の新井の打席ではなかったか。「新井封じ」は広島にとっては命題中の命題。

http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cs200804010333.html

 命題とは何か、命題中の命題とは何か。意味が通じない、辞書をひけ。「新井封じ」は命令である。至上命令である。いいや、命令などというものではない、使命である。ここだけは、投手が死命を賭して封じなければいけなかった。封じるしかなかった。抑えたいときに打者を抑えられるものであれば、野球というゲームなどなりたたない。ただ、しかし、理屈を排して必ず抑えなければいけないシーンがある。俺はそう思う。プロ野球にはそういう瞬間がある、場面がある。それができない。向かっていく気迫すら感じさせず、みすみす歩かせる、打たれる。取り返しがつかない。たとえば今日、今日あたり巡り合わせなどから10-2くらいで勝つだろうとは思うが(弱いチームは接戦を落とし、無駄な大量得点で勝つのだよ)、それで鬱憤を晴らしたことにはならない。負けるより勝った方がいいのは言うまでもないが、この初戦で新井貴浩、そして金本知憲にいいようにされたことは返ってこない。阪神に蹂躙されたことは返ってこない。読売をすがすがしく返り討ちにしたヤクルトのようにはなれなかった。俺はそれに失望するし、くやしくって夜も眠れない。リベンジしないよりはした方がよい。言うまでもない。ただ、ここで失われたものは戻らない。埋め合わされない。この屈辱から目を離せない。しかし、どこか冷めている、同時に冷えている。この冷えこそが、失われたものの代償である。失われたものそのものである。新井は川口とも江藤とも、そして金本とすら違った。違う存在だった。だからこその、ブーイングだったのではないかと思う。俺が現場にいたのなら、絶対にブーイングした。ブーイング行為に対する是非論や自軍選手への影響などどうでもよい。ほかのファン、したファンもしなかったファンも、彼らがどう思ったのかどうでもよい。俺の、新井に対するとともに、カープへの、野球への、世界への、全世界へのブーイングはやむことがない。高橋建よ、石原慶幸よ、ブラウンよ、選手よ、応えるべきときが、男には野球選手には、そういう瞬間があるんじゃないのか、違うのか。そして俺は負け続けることをやめない。だが、ブーイングもやめない。だから負け続けても死なない。カープも死ぬな。