なぜ日本では業界規模に見合ったシステムが作られないのか

 もう漫画を定期的に読まなくなって久しいのに、漫画自体も漫画を巡るあれこれについても好きなので、この話題にも興味があって上のリンクあたりは読んでみた。読んでみていろいろ驚いた。一番おどろいたのは雷句さん(俺が少年誌全部買ってた最後のころに少し引っかかっている)の原稿料。有名でないイラストレータさんにイラストとかカットとか発注しても、こんな値段じゃどうしようもない。もしこれがイラスト、カット全般の相場になったら、別の意味で別の業界を破壊するような値段かと思う。もちろん、漫画の表紙や原稿というのは、印税とかで回収するシステムなのかもしれないけれど、これでいいのか。印税で回収できない漫画家さんはどうするの。
 それでもって、事実関係、これについてはわからんよ。ただ、雷句問題より前に出ていた「邪宗まんが道」の存在などもあって、少なくとも小学館の編集者に漫画家と問題を起こしかねないある種の共通した態度があるようだ、とくらいの判断はしてもいいだろうか。「受け取り方の違い」では済まされないような何かだ。
 こっからはもう、単に漫画読者の想像だけれど、やっぱり高学歴・高収入の漫画編集者には、漫画家に対する嫉妬と軽蔑みたいなものがあるんじゃねえかとか、そう思えてしまう。ある程度クリエイティヴなものへの志向があって、出版社に就職して、漫画の編集者になるんじゃねえかとか。それで、たとえば本当に原作に近い立場になっても、黒子は黒子、社員は社員、大ヒット漫画家の青天井収入とは比較にならない稼ぎと給与……みたいな。ひょっとすると、「邪宗編集道」みたいに、ものっそいどす黒くて面白い話が、どっかの編集者の腹の中にはあるかもしれない。よし、ぶちまけろ。
 ……と、やっぱり漫画読者は漫画家の側に立ちたくなる。これは致し方ないことだと言い訳させてくれ。やっぱり漫画制作の裏側を知らぬ読者にとって、漫画を与えてくれるのは漫画家なんだ。漫画を描くという天賦の才を持つ漫画家という存在なんだ。すごく、作家性を求めている。そういう面がある。俺は『ゴルゴ13』をかなり読んできて、好きな漫画といえるのだけれども、たとえばその制作体制を知ったとき、すこし残念に思ったのは確かなのだ(もちろん、編集者、編集が作品作りにいかに必要かということもわかっているつもりではあります)。
 といった、そういう神格化に近いような読者の願望があってかどうか、あまりにも漫画というものが職人的に作られすぎてはいないかとか、そんなことも思う。相撲界における朝青龍をめぐる問題で感じたのと同じように、これだけの規模のこれだけのプロジェクトを巡る環境が、あまりにも未整備じゃねえのかって。雷句先生は個人事務所のようなものを作ったようだけれど、少なくともこのくらいの漫画家ならば、漫画家側にちゃんとしたマネージャーがいて、編集部との折衝とか任せて、漫画家は漫画に集中……、みたいな。プロ野球選手は野球に専念して、契約などはエージェント、代理人に任せる、みたいな。たとえば、駆け出しの漫画家についても、ピンフッカーみたいな先物買いのエージェントがついて……とか。それで、ほとんど殺人的、廃人生産的(ではないだろうか)な週刊連載のペースとかについても見直してさ。アニメの世界もそうみたいだけど、業界規模、われわれに与えられるものと比べて、作り手がわが妙に未整備で、昔ながらで、個人個人の能力とモチベーション頼りで、それでいのかって。もっときっちりシステマチックに管理されるべきではないのか。
 ……とか、いいながら、それで面白い作品出てくるのか? という悪魔のような発想もしてしまう。漫画家と編集者がいい意味でやりあったり(イメージ画像は『ブロイラーおやじFX』のあとがきにおける桜玉吉とO村)、あるいは今回の件みたいに剥き出しの憎悪がぶつかり合うところから思いがけずすごいもんが生まれてくるんじゃねえのかとか、週刊連載の極限に漫画の神が降ってくるんじゃねえのかとか、そんな想像。ひょっとしたら、こういう漫画家を生き柱、生贄にするような無意識の思いが積み重なって、日本漫画の現状があるとしたらどうしよう。甲子園という狂気の沙汰が、日本野球の土台になっているように。それが日本というものなのか。
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「まあ、作家は常に出版社の尻の穴にキスしなけりゃならないってことは知ってるだろ」
「その反対だと思っていましたわ」
「そうじゃない、飢え死にしそうな作家はそうするんだ」

 たまたま読んでたチャールズ・ブコウスキーの短編(『ブコウスキーの3ダース』収録の「身を焼かれながら叫ぶ」)にこんな一節が出てきたので、引用しておこうっと。