カストラート、ミー

 相撲取りが大麻をやったとかやらないとかそういう話もあって、先のひとりはたしかにやったようなことでいいようだ。さかのぼれば嵐という元相撲取りのプロレスラーも大麻でつかまっており、練習の痛みをやわらげるためにと供述したのではなかっただろうか。
 このように、大麻にはあたえてくれる効果らしきものもあるのに、たばこというのは不思議なものだ。たばこをひさびさに吸えば酩酊感のようなここちよいくらくらがあるにはあるが、だいたいたばこを習慣的にすっている間は、たんにたばこのニコチン分がないことを埋めあわせているだけなのだから。身体をきたえて筋肉をつけるというわけでもなく、ドーピングでむきむきになるというのでもなく、たとえば自分で足を切りつけておいて、傷口がふさがってよろこぶような話なのだ。なかなか凝った趣向といえるように思う。
 性欲はどうだろうか。とかく僕などは性欲にふりまわされて、年中頭の中はいやらしいことでいっぱいのように思っているけれども、たとえばもう何度も性犯罪を犯さなければいられないような人にくらべると、そうたいしたものではないのかもしれない。けれども、中学生くらいから本格的に性への探究、といってもいかに、どのようなエロいものを手に入れるかということに費やしてきた、そこに振りわけてきた労力や知力、お金、時間というものは、自分のほかのあらゆる欲求とくらべたとき、すくなくとも暫定王座の地位にあってもおかしくないように思えてならない。
 しかし、それで僕がえられたものはなにかといえば、畢竟、人体のなかではなんともおさまりのわるい、例の器官、僕の随意にならぬところのあいつの出口から、白く濁ったものをはき出すくらいのものであって、ちょっと費用対効果の面でつりあいがとれてないのではないかと、僕を監査するなにものかがあったら口を出してきそうなものである。だいたい男は、例の器官が仕事を終えてぐったりしているときに、そんなことを考えるのではないだろうか。
 セックスが快感なのは、女性にとって出産の苦しみとバーターになっているなどという話を聞いたことがあって、うそかまことかわからない。男が賢者タイムを経て、それも一段落するともう一回となってしまうのも、なにか動物としての部分に関わるのかもしれない。たとえば僕が遺伝子とやらの乗り物にすぎなければ、そのジョッキーが鞭をくれているということだ。
 ただし人間は人間を見ることができる。福田にいわれなくとも客観視できるのだから、なにも性欲につきうごかされ、ふりまわされることを「本能」などということで片づけていいものだろうか。だいたい、「本能」などという言葉をとりだして、見て、つついて、論じた段階で本能などというものではなく、本当の本能であれば行動そのものであって、言葉になるまえのものじゃないだろうか。
 僕が僕の本能などと言うものは、僕が本能と名づけたいもののことであって、それを卑下したり否定したりする必要もないけど、必要不可欠のものとしてたてまつるような必要もないように思える。たとえば遺伝子をのこすこと、生殖という目的が、あの白い白濁の中のおたまじゃくしみたいなのにあったところで、まあそれはそれでいいじゃないかという具合に置いておいて、快楽と思いたいものもどうようにたいしたものじゃないかもしれないと、そんなふうに置いておいてもいいんじゃないだろうか。生殖しようにも、もうとくに結婚や子供などというものだし、置いておいたほうが、もっと静かに植物的に、落ちついて、もとにもどらないような去勢などというところまで行かずとも、距離をおいて、どこかにしまっておいて、そのまま忘れてしまってもいいのではないかなどと、このところ考えている。