『最後の親鸞』/吉本隆明

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)
 ひさびさに、これほど夢中になって読めた本はなかった。すばらしい読書だった。俺は『妙好人』(鈴木大拙)など読んで、その信のあるところが、弥陀の誓願の方であって行者のそれではないという絶対他力というところの、それじゃあ<信>と無縁のところについてのはたらきはあるのか、その他力本願を推し進めれば<信>も<不信>もないところまで行ってしまって、結局、宗教というか信仰というか、それ自体が否定されてしまうのではないかみたいな疑問があって、『最後の親鸞』はまさにそこのところについての本であったのだった。すなわち、親鸞浄土真宗そのものを<信>そのものを解体していく、その道であって、その道の本であると、俺は受け取った。『妙好人』で、妙好人・浅原才一の、そしてそれに対する鈴木大拙の解説を読んでいたことも大きかった。そういった経験なしにはこの本も読めなかっただろう。なにかわかったようないい気分にはなれなかったろう。ただし、やはり俺もこのあたりに興味を持ちながらも、<信>を持つ身でないところであって、その微妙なところの、どうにか<信>は<信>の外から、また、しかし、<不信>でないところからいかに見えるか、そういう興味もかさなった。そしてまた『日本的霊性』の浄土真宗の部分を見やれば、また親鸞の大地ともにあるところの日本的霊性の成立であるとか、「あはれ」観を抜けたところであるところとか、「言葉」であるとか、そのあたりに大いにまた照応しているようにも見え、これも興味深い。『教行信証』よりも『歎異抄』だぜってところも共通していて、前者について『最後の親鸞』に増補があったらしく、そこで描かれているのは、教理的親鸞こそ<信>の中にあってはねつけるところがあるというさまであった。鈴木大拙は、『歎異抄』において漢文でない、話し言葉で伝わるところにまた、「日本的」なものの成立を見ているが、『二重言語国家日本』の石川九楊からすると別の見方があるかもしれない。また、「声」という点については、空海あたりの何か、鈴木大拙は「視覚は多分に分別の理知がはたらきすぎる」ところのものがあるのかもしれない。また、悪人正機の陥穽の溺れやすいところについて、たとえばあえて悪を為すところが肯定されるのか否定されるのか、その点について「それは自力の介在がある」とするのか、それともたかだか人間のなすところに善も悪もない、というところなのかなどまだまだまだまだわからぬところばかり。知と非知、信と不信。往相と還相、絶対矛盾的自己同一? 禅との関係は。また、『<信>の構造』の親鸞部分は『最後の親鸞』についての言及や、その後の研究なども入っていてこれもまた読み進めている。<信>の解体されたところで、じゃあたとえば空海などにも感じたところだけれども、それが仏や阿弥陀であるところの必要性があるのかといえば、さらりと「時代的背景から仏教として現れざるを得なかった」というように解体されていたりもして、興味深く、また、親鸞の解体とは理念、思想、イデオロギーが宿命的に持つ部分についても及ぶのではないかという可能性なども示唆される。理念的に正しいことなんて、ちょっと賢い人が勉強すれば誰でも言えるようになる、問題は現実の「うそ」との兼ね合いであって、それを結ぶ橋がないところに意味はないという、そのあたりについてはもっと吉本を読むべきか。まあともかく、まとめる気もなにもなく、まとめることもできないだろうけど、これは読んだぞということで、超エキサイティングだったぜってことで、こうメモしておく。
関連図書______________________
日本的霊性 (岩波文庫)
<信>の構造―吉本隆明・全仏教論集成1944.5~1983.9 (1983年)
妙好人