今日も地獄に雨が降る

 今朝は性善説性悪説について考えながら歩いてきました。人間のこの世の悪をなすことのあるのは、本来人間が善であるのに教えが行き届いていないからか、そもそも悪であるから教えが必要であるのか、現状の把握と対策について同一でありながら好対照であるこの考え方について考えながら歩いてきました。
 思いますに、物心というものがどういうものか置いておくとしまして、私たちが幼少の時分に、はじめてなした悪事、すなわち乱暴ですとか盗みでありますとか、嘘でありますとか、あるいははじめてなした善事、ほどこしやいたわり、感謝などについて思いを巡らしますに、その要因となるものといえば決して世の善の倣いでも悪の習いでもなく、自ずから出てきたものにすぎません。私たちの幼少は私たちの分別による善悪とは一線を画したところにあるといってよい。
 ならばその一線はどこに引けばいいのでしょうか。思うにその一線など引きようがない。私たちは、生まれてきてこのようにしている気になっているが、はたして生まれているのかどうかすらあやしい。分別以上のところを知らず、精子卵子の知識を知るのみであって、己の父母の一部であったことなど知るすべもない。父母未生時の己の面目など知りようがない。
 そのようなところに生まれてきたものに善なり悪なりという属性があるのものかどうかはあやしい。むしろ、何の罪もなく生まれてきたいかなる生き物の赤子であるにせよ、他の生命を食わねば生きていけない、そんな矛盾に生まれ落ちる。地獄に生まれ、地獄に死ぬ。いや、地獄に生まれず、また、死ぬこともない。いかなる赤子にも毛の先ほどの善もなく悪もない。
 もし、そもそもの人間というものがあり、そもそもの性質なり属性なるものがあるとすれば、まずこの世の地獄たるところを知らねばならない、そう考えた次第です。火宅にあるものに、いったいどれほどの善なり悪なりをする選択肢が残されているものでしょうか。