- 作者: 宮坂宥勝,梅原猛
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 1968/11
- メディア: 単行本
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と、まあとりあえず禅気分で正三の『驢鞍橋』など読んでいた。が、ふと『RD 潜脳調査室』の最終回を見た影響から士郎正宗『仙術超攻殻オリオン』など読むと、身・口・意と仮学(科学)についてなど書いてある。士郎正宗というと神道系ネタのイメージも多いが、密教、仏教要素もある。そして、循環する海といえば空海じゃないのか、と。
それで、またこの空海入門的な本を読み始めたのだが、なるほど、なんと、まあ、最初に仏教の右も左もわからないころに比べたら、なんとなくピンと来るところもある。
それで、だいたい空海について書かれた本は、「お大師さま信仰に隠されて顧みられなかった空海の思想を!」ということで、それ以前の仏教の流れ、空海が取り込んだところについては書かれていても、禅その他それ以降との対比というのはあまりなされない。逆に、鈴木大拙はじめ禅以降からは「日本には立派な二人の大師(空海と最澄)はいたが、本当に仏教が民衆に根付いたのは鎌倉仏教以降」みたいな感じで、とりあえず敬意は払うが重視はせず、というところ(に見える)。ようするに、あんまり噛み合って論じられない。
そうなのであんまり自信はないが、やはり仏法というところで究極的に一致するところは当然ある。あるけれど、一見意見の大いに違うところ、不立文字と声字実相だとか、即身成仏と即心即仏だとか、そのあたりの対比であるとかは面白いように思える。もちろん言葉や文字といっても真言なわけで、宮坂宥勝流に言えばロゴスでなくパトスの言葉ということなのだろうけど、ロゴスやパトスと言われてもわからんところもあったりして、みてえな。でも、空海の、大曼荼羅世界の、なんでも組み込んじまう、単なる物質や単なる意味なんてないんだ、全部大日如来の顕現なんだ、みてえなところとか、じゃあ例えば浄土真宗における阿弥陀如来の絶対他力とどこが一緒でどこが違うのか、とか、まあ、ちょっとまた空海読もうと、そう思ってるところであります。