『ホテル・ルワンダ』/監督:テリー・ジョージ

ホテル・ルワンダ プレミアム・エディション [DVD]
 ツチ族フツ族については、少し知ったような気になっていた。ずいぶん前に父から聞かされていたような気がしていたからだ。が、勘違いである可能性が高い。父がしきりに「読め」と勧めてきた本はフレデリック・フォーサイスの『ビアフラ物語―飢えと血と死の淵から (角川選書 123)』であって、これはビアフラ戦争(外部リンク)の話であって、ルワンダの話とは時代も場所も別だからだ。でも、ツチとフツはこの映画が話題になる前から知っていたような気がする。たしか『ルワンダ中央銀行総裁日記 (1972年) (中公新書)』も父の本棚のアフリカコーナーあたりにあったから、それ経由で話を聞いたかもしれない。ともかく、俺はどちらの本も読んでいないのであって、「ビアフラ」という単語も脳の中でビールとエビフライとかの横に収まったままだ。でも、フォーサイスはけっこう読んだ。
 それはそうと、『ホテル・ルワンダ』だ。観よう観ようと思いながら、ようやく観ることができた。なるほど、噂に違わぬ映画だ。もう今さら語るべきことも少ないかもしれないが、それでもいくらかメモしよう。走り書きする。
 民族といっても何千年の争いの歴史があるでもない、つい最近ベルギー人が恣意的に決めたような分け方。そんなものであっても、隣人が隣人でなくなり、同じルワンダ人でもアフリカ人でも黒人でも人類でもなくなり、ゴキブリにしてしまうのに十分。そこのところが怖い。人類愛を唱えられるのも人類だけだが、人類の外側に人類を追いやれるのも人類。
 主人公のポール・ルセサバギナは立派な人物だが、立派すぎるヒーローではない。そこがいい。弱さも十分描かれるし、聖人君子というわけでもない。白人側の、富裕層でいることに無自覚であったことまで描いてみせる。家族の身びいきも当たり前にしようとするようなところもある。でも、それが当たり前であって、当たり前なのである。その中で、人間は分に応じたり状況に応じたりしながら、それぞれの為すべきことをしたりしなかったり、できたりできなかったりするだけなのである。
 つまりは、結果としてルセサバギナ氏は千二百人の人命を救い、それはとても尊く賞賛すべき行いとなった。が、ちょっと判断を誤れば大勢の人や彼自身が救われなかった可能性はおおいにある。どれだけの綱渡りであったかは、まさにこの映画に、スリリングさ充分に描かれているところである。だが、もしもルセサバギナ氏が判断を誤り、千二百人死んでいても、それを責められるだろうか。あるいは、家族と先に抜け出してしまったとして、それを責められるだろうか。俺には責められない。誰にも責められない。さらに言えば、外国人だということで一足先に脱出できたジャーナリストやキリスト教会関係者が責められるだろうか。彼らは彼ら自身を責めるかもしれないが、恥じるかもしれないが、あの状況にあって何ができるだろうか、誰が責められようか。
 さらに一歩きわどいところまで踏み込む。はたして10セントのナタをふるって子供を殺し、女を犯した民兵たちを責められるだろうか。やはりそれを責められないというのは、問題発言だろうか。むろん、法の上で彼らが無罪であるとか、そもそも白人が悪い、世界が悪いのだからと責任転嫁するわけではない。裁判があり、裁かれるのならそれは当然だ。その上で、さらにその向こう、あるいは手前、遠くから、近くから見たとき、やはり彼らとてたまたま産まれ育って気づいてみた周りの環境の中で、彼らなりのいかんともしがたい状況、本人がいかんともしがたいと思えるかどうかもわからん状況にあって、たまたま高い木の枝を切ってしまうこともある。俺は、俺が、決してそのような状況でまったく誤ったことをしない自信などない。今、この瞬間に誤っていないとも言いきれない。
 それは際限なき相対主義に落ち込んでいくだろうか? それは違う。むしろ絶対だ。絶対に包まれる。個々の人間の判断など完全に合理性に委ねられるわけでもないし、人智の作り上げた思想や道徳が道を外さないとも限らない。だからといって、あえて誤る必要もないし、わざと悪いことをする必要もない。人間はときに間違えるし、誤ったこともするし、場合によっては何百万人死ぬけれども、それに絶望することもなければ、それをした人間たちを非人間と排除することもない。虐殺するのも我ならば、虐殺されるのも我であるとき、人間はなんとか虐殺しない方向に行くだろう、その楽観。その楽観を俺は信じたい。何かの信者であれば、それを弥陀の誓願だとか、あまねく遍在する神の慈悲であるとか、そういったものと表現する何かだろう。
 そういうわけで、これからも人類は小さく間違ったり大きく間違ったりしていくだろうけれども、このホテル・ルワンダのようなことも同時に起こって少しずつかしこくなっていくだろう。そうなると人類はますますかしこくなりたくなるし、私もますますかしこくなりたいと思う。あまりイズム的にかしこくなりすぎておかしくなるのもつまらないので、なんとなくあるべきようのあるべきようを意識しつつしなかったりしつつ、あえて悪を為さず、できるだけ誤らないように、かといって悪を為すことに絶望せず、誤りをおそれず、少しずつかしこくなっていけばいいと思う。ますますかしこく、武者小路実篤みたいに。
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