わたしにとってはてなブックマークのおもしろいこと


 リニューアルの少し前から使い始めたわけですけれども、いや、はてなブックマークの話なんですけれども、とりあえず今は思うがままに試用しているというか、とりあえずガンガン使おうという、そういう心持ちでのぞんでいるわけであります。
 それでですね、このソーシャルブックマークといいますか、いったい何がおもしろいのか、わたしにとっておもしろいのかと見たとき、それはもうはてなスターなどいただけますとうれしいのは当然でありますが、こちらからの能動的なおもしろさというのは、タグをつけるという、その行為にあるのではないかと、こう感じるこのごろなのであります。
 わかる、という言葉があります。分かる、解る、判るなどと漢字で書けばいろいろとあらわせますが、やはり根本のところは、混沌というおおきなひとかたまりから、ものやことをわける、すなわち分けるようなものであると思います。未分混沌のところに分別のメスを入れて、切り分けたものやことに名前をつけるということなのですね。これが「ことわり」、すなわち理に通じるということは言うまでもありません。と、もっともらしいことを言ってみましたが、それがただしいのかどうか知った話じゃありません。
 まあ、そういったわけで、世の中のものやこと、ネットに流れる膨大な情報を切り分けて、名前をつける、タグをつける。それはまあ、言霊の話や「本当の名前」の話ではありませんが、魂の部分で相手を制圧する、征服するという、まあ昔の神々の行いに近いというところなのであります。わかろう、わけようという人間の魂のはたらきというのは、それこそが、「我らこそが地球の主なり」といって、ここらあたりの惑星をわが物顔で歩くサルの本分といいますか、尽きぬ探究と進歩、もちろんいいところもあるがわるいところもある、その原動力にほかならぬといっていいでしょう。
 が、もちろん、分別には分別の限界というものがある。切り分け、切り分け、分別していった先に何があるかといえば、無限の分別、分類地獄が待っている。ときには分別=征服同士の衝突もあって、切り合い沙汰になるのも目に見えている。
 もちろん、人間は分からずにはおれないわけです。肝要なのは、その限界を遠くの地平にながめつつ、あるいは懐中のものとして、己が限界、人間の理知の限界、ことわりのことわれぬところを思いつつ、その上で慎重に理性のメスをふるう、そのところにあるように思われます。分別の先に主客未分の境地があり、主客未分のあとに新たなる分別がある。それを仏教者なら色即是空といい、空即是色と打ち返すところではないかと信じます。
 そういうわけでありまして、わたしにとってはてブとは、人類進歩とその限界、限界から立ち帰る統合という、おおきな魂のはたらきが行われる場であると、こういうことができます。使っていくうちに、ますますタグの使い方も慣れていくでしょう、ときに新しいタグが増えたり、あるいは統廃合されたりもする。もちろん間違いも多く、いつまでたっても完全なものなどできない。しかし、それは、それこそが人類の知の流れそのものであると、そうおもいます。
 それで私は、「この話は[エロ]だろう。しかし、そこはかとなく[NTR]のにおいがする。でも、そんな反応をしている人類はほかにいないようだ。ここは[エロ]でお茶を濁しておくか。頭の中で[これは高次の寝取られっぽいぞ]と覚えておけばいいのだ」などと、試行錯誤、おもに錯誤しながら、分別の修練にはげんでいると、こういう次第なのであります。