競馬とパチンコ、ひどくばかげた夢、うんざりさせられる場所

 パチンコと俺、俺とパチンコ。俺はパチンコを打ったことがない。一発もだ。身近にパチンコをやる人間が一人もいなかった。狭い世界を生きている。だが、競馬狂いだ。競馬の存続、あわよくば繁栄を願っている。それゆえに、パチンコ屋を敵視するところがある。同じ博打に流れるパイを奪い合う敵というところだ。強敵だ。競輪、競艇、オートも敵となるのかもしれないが、その印象は薄い。むしろ味方。俺も手を出す。やはりパチンコは異質だ。こういうのをポジショントークとかいうのかどうか知らないが、そういうことだ。前にもいろいろと書いてきたと思う。

県がカジノ施設導入に向けた調査をはじめたことを危惧するのならば、そこの駅前、あそこの街角にいくらでも見られるパチンコ屋はどうなるのだ。あれこそが、漫画やアニメーションのキャラクタの衣を着て、人々を中毒にして身の上を滅ぼさせるおそろしい施設だ。それが合法性の埒外でなぜか見逃されて野放しになっているのだ。未だ姿形も見えぬカジノなど、それに比べればどうでもいいではないか……

2008-02-13 - 関内関外日記(跡地)

敵はカジノじゃなくパチンコだ。

2007-07-09 - 関内関外日記(跡地)

パチンコというのはいったいどういうものなのだろう。俺を取り巻く小さな環境が激変して、俺の生活が激変しない限り、行くことはないだろう。初期投資が大きな博打には参加できない、参加したくない。時間とともに金が減っていく博打は恐ろしそうだ。買うか買わぬか迷って、売るか売らぬか迷わなければならない株も同じだ。締め切りのベルが鳴ったらハイそれまでというのがいい。人生に締め切りのベルが鳴らないので、どちらの方が人生を比喩とするかはわからない。

2007-02-22 - 関内関外日記(跡地)

 あれ、なんかプチ株やって、「紙くずにならないからいいなあ」とか思ってるのは誰だ、俺だ。まあいいや。ともかく、パチンコというのは理解しがたいし、あれがあちらこちらの街角でギラギラ光ってて、轟音をまき散らしているのを見るとげんなりする。あの轟音の中にいたら、誰だっておかしくなるんじゃねえの、などと思う(←おそらく、ギャンブルと縁のない人から見たら、野糞が糞壺をわらっているように見えるのだろう)。
 しかし、やはりパチンコも同じギャンブルなのだ、そう気づかせてくれた書き込みがあった。

それは俺らの人生に激しい「JOY」がないからなのさ。わかるかい?
この筆者にはパチンコなんかいらないだけに十分な人生の「JOY」があるんだろう。
経済評論家としての苦悩や障壁を超えた先にある輝かしい「PLEASURE」が君にはあるんだろう?
俺にはそんなものは無いんだよ!いや無いとか言ったら全然うそですけど、実際少ないよ。
そんなん好きな事に必死で取り組んでお前のお前だけのお前のための「PLEASURE」を手に入れろよとか、
人生の勝ち組みの皆様はおっしゃるのでしょうけども、やだもんそんな努力するの。無理無理。
最悪、人によっては、どんなに頑張っても環境的にも才能的にも性格的にも
「PLEASURE」を手に入れられない人はいるでしょ実際。
ってか「JOY」とか「PLEASURE」とか連呼して俺気持ち悪い!けどこのまま続けます。

俺も含めそんな人間達にとっては、大当たりを引いた瞬間の高揚感や勝利感、
ほとばしる感動みたいなもんは日常生活から得る事が大変に難しくなっているんですよ。

パチンコを必要として無い人間が言うな

 「大当たりを引いた瞬間の高揚感や勝利感、ほとばしる感動」……俺はパチンコをやったことがないから「大当たりを引く」ことがなんなのかわからんが、感覚はおそらくわかると思う。チャールズ・ブコウスキーもわかると思う。引用の中の引用はブコウスキー

その男はただ競馬場にいたいだけなのだと思う。気がつけば足を運んでいる。たとえ負けっ放しだとしても、彼にとっては何らかの意味があることなのだ。いるべき場所。ひどくばかげた夢。しかしそこはうんざりさせられる場所でもある。不確かな場所。自分だけがものの見方をわかっていると誰もが思っている。愚かな迷えるエゴよ。わたしもその一人だ。わたしにとっては単なる道楽だというだけの話。わたしはそう思う。そうでありたい。

 そう、「自分だけがものの見方をわかってると誰もが思ってる」。もちろん俺もその一人だ。しかし、そんなばかげた場所にだって、ある一瞬はある。上の文に続いて以下の記述。

しかしうんと短い時間の枠の中だけに限定すれば、とても短い、たとえば自分の馬が走って、それから勝利を収めるほんの一瞬。そこには何かがある。何かが起こるのがわかる。気持ちが高揚し、陶酔感に襲われる。馬たちが自分の言いつけどおりにしてくれる時、人生はほとんど会得されうるものとなる。

 馬券を思い通りに当てたときのあの目のくらむような感覚。まるで自分がどこまでも未来を見通せる、全智全能の神になったかのような錯覚。これが無かったら、競馬などやっていられない。

2005-08-09 - 関内関外日記(跡地)

 そうだ、その高揚、陶酔。われわれの、われわれ敗北者の勝利する瞬間だ。その刹那のよろこびが何に換えられよう。金銭的価値もある。しかし、そんなものでは推し量れない何か。「人生はほとんど会得されうるものとなる」のだ。元記事のhttp://anond.hatelabo.jp/20090106000930氏は元々記事の筆者をさして、「輝かしい「PLEASURE」が君にはあるんだろう?」と述べるが、そうだろうか。あの輝かしい俺の、俺による、俺だけの瞬間というのは、そんな経済学者の成功と比べられるものか。まさに唯我独尊、今、此処、自己しかない瞬間……。

一、馬券は尚お禅機の如し、容易に悟りがたし、ただ大損をせざるを以て、念とすべし。

http://www.jra.go.jp/topics/column/etc/tetsu.html

 人は、本来は無一物でその思いは無尽蔵なのだから、欲がどんなにあろうとも、それはそれで気に病むこともないのだ、そうあることが普通で、深く追求することもない。修行は繰り返し同じことをやり続けることでもあるから、たとえ欲から始まった競馬であっても、これも修行だと言える。ここから生まれるひとつの心境、これは生きることにもつなげてみることができる。そう気がついたとき、一切の煩悩を離れた境地が見えてくるのではないか。

http://www.netkeiba.com/news/?pid=column_view&no=11283

 そして俺は、菊池寛長岡一也が述べる、こういった境地があると信じる。禅機の如し、だ。競馬で儲けよう、感動しようなどと、外に求めているうちは餓鬼にすぎない。臨済ならこう一喝するだろう。

自己の思うようにせよ。決してためらうな。このごろの修行者たちが仏法を会得できない病因がどこにあるかといえば、信じ切れないところにある。お前たちは信じ切れないから、あたふたとうろたえいろいろな外境についてまわり、万境のために自己を見失って自由になれない。お前たちがもし外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖師であり仏である。お前たち、祖師や仏を知りたいと思うか。お前たちがそこでこの説法を聞いているそいつがそうだ。

2007-08-13 - 関内関外日記(跡地)

 わかるだろうか、俺は博打でそいつに会いに行くんだよ。日本共産党の博打観なんて、ぜんぜんいい加減な上から目線だぜ。そして人生は競馬の比喩になるんだ。わかるか? 俺にはさっぱりわからん。というか、競馬側の人間として、パチンコを敵視しつつも、愚かなギャンブルであるという理由でそれが排されたのち、次に目を付けられるのがどこか? というところを肝に銘じつつ、なんとかやっていけたらいいんじゃねえかと思いました。おしまい。