亡骸を見ること

何せ直前まで高温に晒されていた物体である。お骨のみならずそれを乗せている台もかろうじて触れられる程度に熱を持っており、それほど広くない締め切った部屋には独特の熱気が充満している。そして部屋の中央には紛れもない本物の人骨。いくらなんでも小学一年生の女の子にはキツいシチュエーションだろうに。

http://anond.hatelabo.jp/20090126134618

 自分がはじめて葬式に立ち会ったのはいつだったか。2004年の……、いや、父父が亡くなった方が先だ。中学生のころか、高校生のころか……。
 はじめて人の亡骸を見てどう思った。よく覚えていない。ただ、印象としては、長くパーキンソン病を患った祖父の体が、いっそうこわばった、硬くなったと、そのような印象を受けた。
 では、お骨はどうだったろうか。火葬は、心霊スポットとして名高い小坪トンネルのそばの火葬場で執り行われたと思う。お骨の印象は……、そうだ、あまり残っていなかったのだ。たしか、そうだった。やはり肉体も骨も衰えていたのだろうか、人の形が残った骨、という感じではなかった。「こんなに少なくなるのか」というような感想を抱いた。火葬場の人が、腰の辺りの骨だったろうか、「ここが合掌している仏様のように見えます」などと解説したのだった。俺は「ほうほう」と思ったものだったが、父は不快を後に表明していた。
 2004年に母父が亡くなった。こちらはとくに身体の重い病気などはなく、往生というところだった。亡骸は蝋人形のように見えた。人の亡骸を見るのは二度目だったのだけれど、初めて見たような印象を受けた。そして、こちらの祖父の遺骨は実に太く、重く、立派すぎて、骨壺に入りきらなく、難儀していた。菜箸のようなもので、二人がかりで骨を入れていくという儀式は、こちらで初めて体験したように思えた。
 以上が、俺の接した葬式の、そして、人の亡骸を見たすべてだ。たぶん(自分の記憶にあまり信頼を置いていない)。それ以外で、俺は人の遺体というものを見たことがない。ただでさえ、人の死が覆いかくされているとかなんとか言われる現代において、なおかつ人間関係が狭いとこのようになる。だからといって、藤原新也のように、ひとつインドに犬に食われる人間の死を見に行くか、ということもできん。そこらに死体が転がるようにもならんだろう(今後社会状況がすごく悪化していったらどうなるか知らんが)。
 しかし、人は死ぬ。生きた人間がそれに直面するシチュエーションも、年齢もさまざまだ。ときに傷つくこともある。大切なのは、その後のケアだろう。時間が解決するかもしれないし、カウンセリングのような何かが有効かもしれない。あるいは、こういうときこそお寺、お坊さんの出番ではないだろうか。葬式仏教と揶揄されることもあるが、たとえば死に傷つく子をうまく導いてみせれば、葬式仏教として胸をはる価値がある。正式な仏教徒とは言い難い俺が、僭越ながらそう申し上げる(もちろん、その他宗教、宗派のお葬式であれば、それぞれの宗教者の出番だろう)。

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