村上春樹の件について、なんかどうも手放しでよろこべない理由を考えてみたんだ

 ……と、昨日、俺はずいぶん盛り上がって書いてみたんだけれど、どうもこれは嘘だ、全部が全部じゃないけれど、どこかに嘘があると、そういう気になってしかたなかった。なんかしっくりこない。それで、昨日の夜と今朝、考えたり、いろいろ読んだりして、なんとなく書く。
 ずばり、どうも嘘だと思ったのは、次のくだりだった。

 それで俺は、なんだかヴォネガット的失敗でもいいぜって、自分でも言い過ぎて、それにひきずられて、「ど派手な失敗やらかさねえかな」くらいのテンションになっていたけれど、それは反省するぜ。まあ、だいたい、村上春樹みてえなのは、そんなに失敗しないんだよな。たぶん、きっと。

 これだな、これはポーズだ。うそだ。俺は、村上春樹エルサレム賞の授賞式の文を読み、映像を見て、なんかグッとくるところがなかったんだ。こう言ってはなんだけれど、これは予定調和というか、予告された光景の記録にしか見えないというか、自分の芯のところをなぞってみると、そんな不満、満たされないところが出てきたんだ。俺はひょっとしたら、むしろ、ど派手な失敗、枠外のこと、埒外のこと、逸走するサクラエイコウオーみたいなもの「こそ」を見たかったのかもしれない。
 勝手に期待して、勝手に失望する。なんてひどい。心の動きはなんとなくなぞれる。「村上春樹はイスラエルでキルゴア・トラウトになれ!」で、バット持って行け、一発かませ春樹! と、煽ってみたところで、一日経って反省した。それが「だから俺は村上春樹を断固応援するんだ!」。そこで俺は、減点式じゃだめだ、ともかく、行くだけでいいし、ちょっとでも意思を示してくれたらオーケーだ、とハードルを下げたんだ。
 俺はハードルを下げるのが好きだ。他人のハードルが下がれば下がるほど自分のハードルだって下げられるし、そもそもハードルなんかなくて平地を走ればいいんだし、むしろ走路もなにもなくて、野っぱら、走りたいやつは走っててもいいし、俺は寝っ転がって手鏡見ながらあごひげを毛抜きで抜いていたいし、太鼓叩きたいやつは叩いてればいいと思う。中川さんは好きなだけ飲めばいいし、デイ・ドリーム・ビリーバーはいつでも君と笑っていればいいんだ。
 それはそうと、ともかく、その下げたハードルのかなり上を、春樹は踏み切ってジャンプしたんだ。きれいな飛越だ。見事だ。スピードに乗った、リターンエースみたいなジャンプだ。エルサレム賞を三馬身差で勝つくらいだ。
 でも、突破できなかった。突き破れなかった。何を? 「壁」をか? 俺は、そう思ってしまった。ハードルを勝手に設定(この状況下でイスラエルに行く以上は、最低限なにかメッセージを発してくれ、という)して、設定した以上、それを乗り越えたら拍手をおくるしかない。俺も、よろこぶべきはずなのに。
 じゃあさ、俺は、何が起こればよかったと思ってるんだ。いきなりの受賞キャンセル? 単なる受賞ありがとうスピーチ? 違うよ、全然違うよ。じゃあ、本当にルイスビル・スラッガーのバット振りかざして、「アウフヴィーダーゼーエン、フロイト!」とか叫びながら、エルサレム市長に殴りかかればよかったのか?
 そうだとも言えるし、そんなわけでもないような気もする。たとえ、うまいぐあいにバットを持ち込めても、たとえ、村上春樹がバット振り回しても、やっぱりなんか、なんというか、突破できねえ、そういうような気もする。その失敗だったら、やっぱり、たぶん、村上春樹の「苦言」の方がはるかによい、のだ。

はっきり言えば村上春樹は最初から詰んでいたということです。そして、ぼくたちも最初から詰んでいるのです。わたしたちがつくりだしたはずの「制度」に、わたしたちは束縛されているのです。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090216/p1

 俺のもやもやは、こちらで言及されているような、「詰み」についてなんだろうか。よくわからない。でも、卵が自分から壁にぶつかるとき、それは尊いと思う。だからいつか卵として壁にぶつからざるをえないという、そんな打順の巡ってくることへの準備というか、覚悟も必要なんだろう。いや、今、まさに打順が巡ってきてる、この今、ここ、を打て、ということやもしらん。自己を打て、ということかもしらん。内心の卵が自己の壁にぶつかって、まずそこからはじまらなかればいけない……。
 でも、俺は命令形は苦手なんだ。「べき」とかいうの、超苦手。勘弁してほしい。だからやっぱり俺は、ハートがない、ハートがないということにしたい。部屋で寝ていたい。サッコやヴァンセッティにはなれない。それでも、なんで、じゃあ、俺は、言葉で、こんな風に考えなければいけないのか、言葉が、考えていってこのようになるのか。ああ、むずかしいむずかしい。壁と卵にひき裂かれ、卵の中の卵、俺の言葉と俺の中の俺の中の俺にひき裂かれている。
 ちょっと村上春樹の本でもめくってみるか。

 もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福の瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは――少なくとも僕はということだけれど――いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。
もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

 ……ウィスキーといえば、スコッチといえば田村隆一だ。田村隆一にはこんな詩があった(なんでミスター・田村のことをよく思い出すのかな?)。

人 ウィスキーに関する仮説

きみは
まだ若いのだから
ウィスキーを飲まないほうがいいと思うな

イギリスの小説家コリン・ウィルソン
一つの仮説をたてた
馬が馬になるまで千三百万年
鯨が鯨になるまで一億五千万年
人が人になるまでに
たった一万三千年

しかも
もっとはげしい変化は
過去一万年のあいだ
頭のいいチンパンジーからロダンの考える人まで

なぜ
人間の身の上に進化という変化が起ったのか
BC八千年に
人類がアルコールの発酵法を考えだしてから
その変化が起ったというのがウィルソン氏の仮説なのだが

きみはまだ若いのだから
ウィスキーを飲まないほうがいい いままでに
馬は馬を殺したことはなかったし
鯨は鯨を殺さなかった

どうして人は
人を殺すのだ?

どうして人は
人を愛すのか?