噛み合わなかった俺の人生
髀肉の嘆を託つ(ひにくのたんをかこつ)という言葉がある。三国志の劉備が、志を忘れ安穏な生活を送るうちに、ふとももに贅肉がついてしまったことに気づき、これではいかんと発起したという故事だ。俺も髀肉の嘆を託ったことがある。引きこもっているときだ。ふと、洋式便座に座っているとき、自分のふとももが妙にだらしないことに気づいたのだ。俺も、これではいかんと思った。思って、俺はヒンズースクワットを日課にした。
俺は即物的な人間で、いまいち比喩というものがわかっていない節がある。たとえとか、なぞらえとか、回りくどいのは苦手なんだ。
思えば、俺は歯を食いしばって努力した、何かを成し遂げたという経験がない。なぜだろうか。そうだ、俺の歯の噛み合わせが悪いからだ。歯医者で「歯を噛み合わせてください」と言われても、「え、どのポイントで?」という歯並びだ。
矯正という選択肢はあった。小学校、中学校。まわりにやっている友人もいた。しかし、ともかく痛そうだった。飯が食えないなどという。かなわんと思った。俺は歯医者が怖いのだ。現在進行中で、歯医者のことを考えると、手に汗がにじんでくる。
そういうわけで、俺の端正な、平安貴族のように優雅でか細い顎の中には、奇妙に左右対称な造形物が埋めこまれている。たまに、なにか事故に遭って、歯という歯を全部失って、莫大な賠償金とともにかっこいい人工の歯が入ったりしないものかと妄想する。けど、痛いのは嫌いだ。
ブラキシズムと俺、俺とブラキシズム
ところで、俺はブラキシズムの話をしたかったんだ。ブラキシズムを知ってるかい? 歯ぎしりのことだ。ブックマークを見るに、俺がそれに気づいたのは3月16日のことだった。そして、歯ぎしりマウスガードという商品を注文したのも、その日のことだった。
これが歯ぎしりマウスガードだ。「すてきな収納ケース」もついている。収納ケースがすてきだったら、「すてきな収納ケース」と記す必要はないのではないか。いや、やはり愛その他の思いは、口に出さなければ伝わらないのだ。お口に出して、思う存分、はき出して、それで伝わるんだ。
その前に、ブラキシズムと自分の関係を述べておくべきだった。俺はこのところ、ブラキシズムとともに目覚めることが多い。気づいたら、歯をかしかしと横にすりあわせているのだ(おそらく、グラインディング)。
ずっと前から、たまにあった。たまにあって、「これが歯ぎしりというものだろうか?」などと思っていた。思っていたが、その程度のものだった。が、このところ多すぎる。どうすべきか。その答えとして、この商品を見つけたのだった。Amazonで。
歯ぎしりマウスガード
598円。自分の歯形に合わせられるという。この値段でだ。これはかなわんじゃないか。歯医者に行かなくてもいい。俺はブラキシズムとの闘争にあたって、これを選んだんだ。
マウスガード
Amazonから届く。届いて、まず自分の歯形を取ることになる。どう使用するのか。以下のレビューを参照されたい。少なくとも、俺のようなものにも簡単に作れたと言える。「奥歯の詰め物が取れたらどうしよう? また神を見るのか」などと思ったが、それについては問題がなかった。 そして俺は、眠るときにマウスガードを食う人間になった。説明書には、慣れてから就寝時に使いたし、と書いてあった。が、俺はその晩から装着した。マウスピースをしたボクサーの口まわりのようだ。
そして、眠れた。朝も、普通に起きた。息がしにくいとか、口の中が気になったとかいうことはなかった。むしろ、朝、マウスピースを外したとき、なんとも言えぬ快さを感じた。
それは、噛み合わせるという感覚の残滓だった。俺は、寝る前も、朝も、ギューッ、ギューッと、何度も何度も、短く、長く、マウスピースを噛んだ。おそらく、ブラキシズムに流れていた力も、噛み合うことに使われた。これが、噛み合わせというもの、歯を食いしばるということ。俺が生まれてこのかた知らなかった感覚。
歯の噛み合わせと集中力その他の話。それがニセ科学なのかなんなのか知らない。知らないけれども、俺は俺の人生とどうも噛み合わなかった。俺の歯は噛み合っていなかった。今、俺の歯は、歯ぎしりマウスガードをしている間だけ噛み合うようになった。そして俺の人生がどうなるか、それも知らないけれども、そこの間に何もないと思うと、この世が少しつまらなくなるような気はするのだ。少しだけ、ね。
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