舞鶴市女子高生殺人事件報道でわかった俺の理性および心情の弱さ

府警は会見で、逮捕の根拠については答えず、接見に訪れた弁護士も取材に応じなかった。事件には明確な物証がないとみられている。

http://www.asahi.com/national/update/0408/OSK200904070086.html

 この事件、何ヶ月か前の、弁護士立ち会いの別件家宅捜索やらなんやらを見ていて、ちょっと無理筋じゃねえのかと思っていた。今回の逮捕についても、そりゃあ証拠というのは物証のみではないのかもしらんけれども、なんかちょっと無理してるんじゃねえの? 大丈夫なの? という気持ちが強かった。さい銭泥棒、下着泥棒で逮捕されている、近所のトラブルメーカーなんか、ちょうどよく殺人事件の犯人役にされやすいってところがあるんじゃねえの、って。そりゃあもちろん、俺は報道の一部をつまみ食いして知るばかりであって、そこから判断するしかないのだけれども、その条件下では、「なんかちょっと警察の捜査はあやしいぞ」という側に傾いていた。それはたしかだ。
 が、今朝のワイドショーを見ていて、それが逆方向に傾いてしまった。容疑者の親類のインタビューで、「前の逮捕よりもショックです」って言ってて、「そりゃ泥棒より殺人事件ならショックだろう」と思いきや、以下の話が出てきたのだ。

昭和48年9月、当時25歳だった中容疑者は、内縁の女性=当時(26)=との別れ話のもつれから、滋賀県草津市の路上で女性とその兄を刃物で刺して殺害。さらに近くの民家に押し入って住人の女性2人を人質に立てこもった。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090407/crm0904072159044-n2.htm

 えー、そんなん初耳じゃん。報道されていたっけ? いなかったっけ? ともかく、これでもって、俺の心の中のしょうもない秤は、ぐぐっと「有罪」方向に傾いたのだ。それが自らに察知された。もちろん、これが証拠に別の殺人の犯人に名指しすることはできん。それはわかっている。これもまた、「近所とのトラブル」、「窃盗の前科」と同じく、レッテルとか印象の一個に過ぎない。昭和48年の事件については、それに対する服役で罰は終えている。今は、別件で服役中の一人の市民(こういう表現でいいのかしらん?)にすぎない。だから、秤が「有罪」に振り切れることはない。ただ、どちらかといえば、「なんかちょっとこの容疑者はあやしいぞ」側に振れた。それはたしかだ。
 で、ここんところの頭と心の動き。これがなんだ、俺が俺の中でやっている分には、まあそんなになんというか、どうということもない、そんな話だ。ただ、これがもしも、俺、裁判員、みてえなことになったら、お前、それはちょっとした、現実の、この事件に対する、事件の容疑者、被害者、あるいは日本国の司法というものに対する影響力の行使となる。ああ、なんかそれちょっと、やばくねえの? まあ、現実に、裁判員にでもなろうものならば、やはりそこで、マスコミ報道の一部といったものではなく、いろいろの証拠だとか、あるいは弁護側の意見も多く聞けるだろうし、その上で判断するしかないのだろうけれども、いやはや、しかし、少なくとも俺はこんなもんだぜ、と。そんなんでいいのかよ、と、ちょっと不安にならあね、まったく。