名前なんて無茶苦茶でもいいんじゃねえの?

俺は固有名詞が好きだ

週刊文春」には、「先生が名前を呼べない子供たち」という特集が組まれていた。一度では、読めない名前が増えてきた。その名付けの変化は、
ここ10年劇的だと言うのだ。

痛いニュース(ノ∀`) : 「子供の名前に和源(わーげん)、天使(みかえる)…とりかえしのつかない一歩を踏み出さないために」…中村修治氏 - ライブドアブログ

 俺は、固有名詞が好きだ。どう好きなのかは説明しがたいのでしない。ただ、たとえば競馬や野球が好きなのは、そこにたくさんの固有名詞があるからだ、とすら言えるかもしれない。地名もいける口だ。
 しかし、なんといっても人名だ。人名が好きだ。人名の中でも、とりわけレアな名前は気になってしまう。ネットで新聞の記事を読んで、最後の署名にめずらしい苗字があると、もう記事の内容よりそっちの方が気になるくらいだ。自分のブックマークの[名前]は、そのようにできている。
 10年劇的の名前。それはよく感じている。おもしろくてしかたない。なにかの催しでならんでいる子供たちの絵、その名前。神奈川新聞のマイタウンスポーツの欄における、子供の体育記録会の記録に並ぶ名前。予備校のチラシの進学実績に並ぶ名前。新聞やチラシなどの場合、俺は赤いボールペン片手に、「これは読めない」という名前があると、どんどん赤いラインをひいていく。だんだん俺の中で「これは」という名前は減っていく。最初は奇異に見えたものも、だんだん慣れてしまう。
 たまに、ものすごく難易度の高い名前がある。しかし、暗号解読者のように、ふと、たとえば、「これは‘コスモ’じゃないのか!」とか、「‘エアロ’じゃないのか!」などとひらめいたときは快感だ。
 おおむね、俺は、そのように、無駄に生きているが、あなたはどうだろう。

お前のそれ、20年前のお名前じゃねえの

 ところで、20歳の若者がいるとして、彼の名前は20年ものだ。どうする、20年ものだぜ。そうとうほこりをかぶっている。古くさいセンス。お前の両親がつけたりした。占い師かもしれない。20年前だ。20年前のお値段。それが、昨日今日名付けられた、新しいものをバカにする、それはもう、お前、ちょっと待てと思う。お前の名前は20年も前につけられたものなんだ。俺なんて、30年前のものだ。まあその、在日の人の通名の話なんておいておくとして、あるいは、まあ、別に、日本に限った話でもねえかもしれねえし。
 で、俺の人体が、たとえば、細胞とか、そういうレベルで、新陳代謝して、まったく新しいものに入れ替わっている、動的平衡とか、頼朝のしゃれこうべとか、むずかしい話はわからないけれども、まあ変わってるとして、俺の名前、親がつけた、俺はあまり気に入ってない名前というものは、俺のもっとも古い持ち物じゃないのか。たとえば、俺が持っている本のいくらかは、俺の産まれる前のものだったりするけれども、まあそれを入手したのが、18の頃だとすれば、たった12年ものにすぎない。俺の名前は、なんと30年ものだ。

同時代名前

 だから、たとえば俺が、アニメや漫画、ゲームのキャラクター名を考えようとすると、それがこの時代、この国であれば、俺はたぶん、30年前の名前はつけられない。俺がもしも、アイドルや、AV女優や、風俗の源氏名をつけることになったとすると、やはり、30年前のお名前はつけられない。そこが、どうも同時代だと思う。今の子供の名前がAV女優のようなのではなく、また、今のAV女優が子供のような名前なのではなく、今の名前がそのようなのだ。
 たとえば、今時は空海と書いてなんと読むかわからないが、かの弘法大師の幼名は「真魚」だった。あと、「蘇我入鹿」とかいて、なんか動物っぽかったりした。「蝦夷」なんてのも、異民族を人間扱いしていないあたりからくるものだったかどうか、知らないけれど。あと、空海アイヌ系説ってのがあったように思う。よく知らない。
 まあ、そういうことはおいといて、なんか、一気に、中国風名前が流行ったりしたんだと思う。「藤原俊成」とか、「橘逸勢」とか。
 あー、まあ、このあたり、まったく、俺の脳内だけソースなんで、無茶苦茶だと思う。でも、まあ、なんかそんなもんだぜって。

つーか、名前なんて無茶苦茶でいいじゃねえの

 というわけで、たぶん、もうおわかりと思うが、俺はもう、たとえば、最初のリンク先のような論調というか、そういうところには、ほとんど共感するところがない。俺が、俺の読めない名前をおもしろがるという、その「おもしろがり」の中に、嘲笑の笑いは含まれていないんだよ。まったく。「おもしろい苗字ですね!」っていう、それに近いところなんだよ。俺の名前なんて、おもしろくない。
 それで、俺の好きな名前のエピソードというと、ともかく次のものだ。西郷隆盛の弟の西郷隆道の話だ。
wikipedia:西郷従道

名は維新後に太政官に名を登録する際、「隆道」をリュウドウと呼んで口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」となってしまった。本人も特に気にせず結局「従道」のままであった。ちなみに西郷隆盛も本名は「隆永」で、「隆盛」とは彼らの父の名前であり、同志の吉井友実が勘違いして登録してしまった。自分の名前に無頓着なところがこの兄弟にはあった。

 俺、名前なんて、こんなもんでいいんじゃねえのかって思うんだよ。俺はね。「人の名前は絶対に、大切な、ひとりひとりの、親の願いの込められた、大切な、読み間違ったりしたら、たいへんなものなんだ」という考え方もあるだろうし、そういう人がそういう姿勢で、自分や他人の名前を大切にすることについては、べつになんとも思わんが、自分は、まったくその気がない、というと、勝手に読んでしまう相手に対して失礼になるだろうが。
 だから、たとえば、西郷さんにしたって、西郷南洲と呼ぼうが、西郷吉之助と呼ぼうが、まあ、隆盛を「りゅうせい」と呼ぼうが、まあいいんじゃねえのって(号と名前とあだ名と、えーとなんかそういう区分については面倒だから無視。諸葛亮孔明)。だいたい、たぶん、高島俊男なんかがよく書いていたけど、この当時の名前なんてものは、まあ適当なもので、読みなんてのも適当で、たとえば、徳川慶喜がいつ「けいき」って呼ばれるようになったとか、榎本武揚の「たけあき」なんて、いったいどっから出てきた読み方かわかんねぇみたいなところがあるとか。あと、司馬遼太郎の小説にも、「谷干城」を、「たにかんじょう」と兵士が読んでいたみたいな、話もあって、まあ、どうでもいいというとあれだけれども、明治あたりでもそうなんだから、日本人の名前なんてものは、まあそういう感じの方が面白いんじゃねえの、と。藤原俊成は「しゅんぜい」でもいいだろうし、橘逸勢の読み方はよく覚えられねえけどれども、まあ、俺はさいわい漢字が読めるので橘逸勢(心の中で無音)でもいいやって。ほら、石川九楊だって、『二重言語国家日本』の中で、この国の言葉は書字中心だって書いてたような気がするし。
 

これからの名前のありかたについて

 というわけでさ、俺はさ、「とりかえしのつかない第一歩を踏み出したようなネーミング」なんてのは、まあ、おおよそないだろうというか、そりゃなんかわかんねえけど、「田中放尿子」(これは「おしっこ」と読ませたい)とか、そういう名前はだめだろうけれども、ポジティブな方にいくなら、たとえば、宝来城多郎とか、三浦皇成とか、好きなだけでかくいってみりゃいいじゃんって、思ったりするんだよな。
 でも、まあ、テクニカルというか、日常生活の上で、たしかにめんどうくさいこともある。だから俺は、新世紀エヴァンゲリオンにならって、名前を原則カタカナにしたらいいんじゃねえかと思う。小島フトシ。郷原ヨウコウ。加賀タケミ。うーん、ちょっと、さっきの、名前の冗長性というか、いい加減さみてえのが減ってつまらないかもしれないけれども、たとえば、病院とかで名前呼ばれて、面倒とかあったりとかさ。それに、なんかほら、SFっぽいじゃん。俺は、SFっぽいものは、肯定したいんだ。それにさ、だいたい人間の話す言葉そのものだって、まあ、なんつーか、偶然の産物というか、言霊みたいなものがあるとしたって、言葉があるあとの話であって、まあそもそもは、なんか人間の喉と呼吸の具合とか、口の形とかがなんとなく生み出した、根拠のない、あいまいなものじゃん、って。だったら、まあ、名前だって、どうでもいいよって。
 というか、SFだったら、もう、総人類管理コード付きみてえのでいいじゃん。学校の出席も、「AF9388000021」「ヤー!」「BCD9483777599」「ヤー!」みてえな、「またLK0039992800は休んでいるのか」みてえな。いや、そこは愛称でいいじゃん。まあ、わかんねえけど、そういうことでさ。

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