私は私が信じる努力を信じられない私なのです

努力ってなんでしょう?


「努力は裏切るが、努力しないことは裏切らない」
(=努力することは報われたり報われなかったりするが、努力しなかったということが報われることなく、むしろ報いとしてあらわれる)
 ……あるとき私はこんなことを思いついた。そういうものなんじゃないのか、と。でも、これについての、うまい言い回しが思いつかずに長らく困っている。もしかしたら、すばらしい表現があるのかもしれないが、あいにく私は知らない。
 「努力しないこと」を「怠惰」あたりに替えてしまえばすっきりするかもしれないが、それはちょっと違うような気もする。「努力」は目的があるが、「怠惰」に目的はない。そして、無目的の「怠惰」は報われることがあるような気もする。
 「報い」というのも少し意味が広すぎる。正確には、「努力の目標については報われない」という範囲にすぎない。「努力しなければ罰が当たる」というようなものでもないのだ。
 具体的には、たとえば、野球がうまくなりたいという目的があって、野球の練習その他を努力する。その努力は、たとえば甲子園に出場するとか、ドラフト3位で広島に入団し、最高勝率のタイトルを獲ったりしたのち、中日に移籍してそこそこ活躍して、最後は楽天に行ってコーチになるとか、そんなふうに報われたりする。もちろん、いくら努力したって、高校野球の一回戦で三打席で四つの三振、五つの失策みたいに終わることもある。
 一方で、野球の練習をしないで、金属バットに目出し帽でコンビニを襲うのが日課でした、というような人が、野球で報われることがあるだろうか。「コンビニのレジを破壊するのに比べたら、こんな棒球! 必殺!‘金属バットで頭めがけてフルスイングできたのは丑嶋と滑皮だけだった’打法!」などといって、全盛期の伊藤智仁の高速スライダーを神宮の左中間に……

 ……ちょっと待った、私はたとえ話が苦手みたいだ。人生も苦手だ。まあ、そんなわけで、なんらかの一流プレイヤーが、「自分、練習嫌いでしたから」などと言っても、たとえばその分、こすっからく相手の球種を読む能力を鍛えていたのかもしれず。
 
 でも、やっぱり天才的なきらめき勝負の人って……いるにはいるような気もするが……、それはとりあえず脇に置こう。

 そんなわけで、私は以下の記事を読んで、自分の考えとの合致を見た。

努力とは元々「後付けで成功原因を説明するためのメソッドだった」というのが個人的なまとめ。

http://d.hatena.ne.jp/RPM/20090917/doryoku

 ……あれ、自分のとはちょっと違うかもしれない。たとえば、後付け説明でいえば「あのとき、彼が金属バットで母親の頭を打ち砕いた努力が、のちの刑務所内ソフトボール大会での活躍につながった」というようなケースも成り立つ。私の考えでは、努力にはそれに対応する目的があるはずなのだ。うーん、たとえば、稲尾和久が幼少時に漁船で足腰を鍛えたことは、「努力」ではないはずなんだ。そのときに、「野球のため」という目的がないかぎりは。
wikipedia:稲尾和久

大分県別府市北浜出身。七人兄弟の末っ子に生まれる。漁師を継がせたいと考えていた父親の意向で、幼い頃から艪を仕込まれ海に出されていた。「薄い板一枚隔てて、下は海。いつ命を落とすかわからない小舟に乗る毎日だったが、おかげでマウンドでも動じない度胸がついた」と後年語っている。また、稲尾の強靭な下半身はこの漁の手伝いによって培われたものと言われているが、稲尾本人は「バランス感覚は養われたかもしれないけど、下半身のトレーニングにはあまりなっていないよ」と否定している。

 あ、えーと、足腰じゃなくて、精神力とバランス。というのはどうでもよくて、ああ、えいと、うーん。そりゃまあ、なんというか「自分練習嫌いっすから」という成功者についても、探してみれば何かあるだろうし、その「何か」を努力と名づけて処世訓にしたりするんじゃないのかな、とか。そうだ、そのあたりはそうなんだ、たぶん。
 ただ、報われない努力というのは、まあ世の中の大多数である報われない人間がそこここにいて、それらの人の努力を努力と呼ばず、あえて「徒労」とかに置き換える必要もなく、「努力は必ず報われる」というのは、とりあえず嘘っぱちじゃないのっていうことだ。


私は努力が嫌いなの


 それはそうと、次に上の記事の関連で、こちらの記事を読んだ。

「成果を成果と見抜けないような、目が節穴の人間ほど、努力を嫌いになっていくんじゃないか?」

目が節穴の人間ほど、努力を嫌いになりやすい――成果の観測力に関して - シロクマの屑籠

一等星のような成果しか目に映らない人というのは、頑張りに対する心的報酬が得られにくく、頑張りが報われなかったという徒労感を抱きやすい。逆に、成果の観測範囲の広い人であれば、自分の頑張りに対するフィードバックに見出しやすいぶん、その頑張りに対する心的報酬が得られやすく、何らかの形で報われたという気付きを抱きやすい……つまり、「頑張ってよかった」という気持ちに到達しやすい。

 
 そう、まさに、私のことじゃないか! 目が節穴、でも、だからってスカルファックはしないでね……などと、心理的な何かに食いついてしまうのは、なんとか現象とか名前のついたなにかだったかもしれないが、しかし、「なんとなくこれを読んで今その気になった」というようなことではないのだ。たとえば、同じく「努力」をテーマにした過去の自分のブックマークコメントを見よう。

物心ついたときから「努力したところで無駄」という観念に支配されてきた自分は何なんだ? 受精のときになんか忘れ物でもしたのか? 2008/12/03

http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20081202215824

 日記にだって、いくらだって出てくる。

しかしうんと短い時間の枠の中だけに限定すれば、とても短い、たとえば自分の馬が走って、それから勝利を収めるほんの一瞬。そこには何かがある。何かが起こるのがわかる。気持ちが高揚し、陶醉感に襲われる。馬たちが自分の言いつけどおりにしてくれる時、人生はほとんど会得されうるものとなる。(チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』より)

 そうなんだよ、この陶醉なんだ、この陶醉が人生にはなかった、競馬以外のほかのことにはまったくなかった。でも、ひょっとしたら、この光って、俺が競馬の中にしか見いだせない高揚って、世間の皆さま、小さなころから大きくなるまで、日常の中でコツコツと味わったりしているもんじゃあないでしょうか。俺の中にはこれっぽっちも見つからないけれども!

1枠2番セイコウタイケン 単勝18.8倍 - 関内関外日記(跡地)

 そうだ、この光だ。この光こそが、上の記事に言われている「星」なんだよ。

自己評価の“格差社会” - シロクマの屑籠(汎適所属)
 そういえば、ちょっと前に、こんな記事を読んだ。読んで、俺はブックマークに、こう書いた。

はてなブックマーク - 自己評価の“格差社会” - シロクマの屑籠(汎適所属)

家族親類がそれなりにできる人らだったので、ナチュラルなハードルが高く、とくに苦労も失望もせず、結局(2)-2に落ちついた俺。評価されたい、誉められたいとは思うが、そのためのレセプターが存在していない感じ。

 まあ、俺は、俺の脳味噌の、中のことや、まあ、俺のというか、人類の、脳のはたらきや、心の機能を知らないわけだけれども、もやもやと、想像するイメージとしては、こんなところであって、「ほめ」成分がふわふわと入ってきても、それを受け止める受容器がないような、そんなふうな気がしている。
 たぶん、ほめられていることは、あると思う。ほめられていないわけではないかもしれない。でも、それを、素直にうけとめて、くさい言い方をすれば、心の栄養、みたいな、そんなふうに消化する器官というか機能というか、そこのところのはたらきが、すごく弱い。動いていない。そこんところが、どうも、たぶん、あまり健康的ではないのではないかと、まあ、俺は、人間の脳の科学や、きちんとした心理学、いい加減な心理学も知らないのだけれども、そういうような感じで、自分の体が感じていると、感じている。

ほめられようとも、このいきぐるしさ - 関内関外日記(跡地)

 ……とまあ、私は何度も何度も同じことを感じ、考え、繰り返して、それでも、まったく同じような心持ちのまま、なんだな。

光と私と馬券と自転車と


 ただ、上の引用にあるように、ときどき私だって光を見ることがある。馬券を当てること、だ。ただ、これはむずかしい。下手すれば、何か努力して小さな成果をえることより難しい。なにせ、当たらないからだ。馬券で儲けるのは、難しいからだ。調子がよければ光に包まれて高揚しようが、同時に地獄が落ちてきたような失敗を叩きつけてくる、それが競馬だ。今、競馬について私は、地獄の中にあって、刻まれやすい失敗体験の焼き印を押されている最中だ。
 しかし、そこに取って代わったかのようにあらわれたのが、自転車というものだ。安いクロスバイクだ。私はこれに没入する。ひょっとすると、そこに小さな光を見ているのかもしれないと思う。とくに目的も目標もない、一漕ぎ、一漕ぎ。べつに誰に評価されるわけでもないし、人と比べたところでなんということはないサイクリング。
 しかし、私の一漕ぎ、一漕ぎは、確実にサイクル・コンピュータに記録されていき、1km、1km、1分、1秒を刻んでいく。私はそこに充足を見る。私の自転車はマニ車で、私のサイクル・コンピュータは浄土ヶ浜への道をカウントしつづける。
 私はその一漕ぎの砂粒が宇宙全部の真砂であって、また、サイコンの1秒がそのまま永遠に通じているように感じている。
 これは、けっしてなにかを衒っているわけでもなく(結果的に衒っているだけだとしても)、狂気や信心を演じているわけでもなく(結果的に演じているだけだとしても)、今のところの私の実感なのだ。もしも私がこれにより狂っているのだとすれば、それでけっこう。世の常識は君らに任せた。私はもう、ひたすらクランクの、タイヤの回転の中に自閉していく。それで、けっこうだ。