高橋源一郎『官能小説家』を読んだ

平野啓一郎の『日蝕』だけど、あんたどう思う?」
 おれにはわかってる。人生にはたくさんの罠がある。至る所、地雷だらけだ。
 本番前の脚馴らしに出てきたブラックホークが1番人気。強いメンバーと戦うのははじめてで、しかも最後方から追い込むワンパターンの戦術しかないビハインドザマスクが2番人気。京成杯だよ。こんな馬に金を突っこむやつは、半年で破産しちまう。おれが四十九まで生き残ってこられたのは、罠にかからなかったからだ。用心深かったからだ。バカじゃなかったからだ!
 そしたら、ビハインドザマスクが1着でブラックホークが2着。なんだ、そりゃあ? そんな馬券を買うのは競馬のことなんかわかっちゃいないやつだけだ! 素人だけだ! おれは買わん! 絶対に! とにかく。こんな質問に答えるのはバカだけだ。ほめてもけなしても、ダメなんだ。
 おれは冷静に答えた。
「お客さまがおかけになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直しください」

 ……いったい、なんの話だ。俺にはさっぱりわからん。なにがわからんって、なんの京成杯の話をしているんだ? ということだ。ビハインドザマスクブラックホークで決着したのは、2000年のセントウルステークスじゃないのか。

 ……などということはどうでもよい。いや、どうでもよくないのかもしれない。ビハインドザマスクブラックホーク。これが何かを暗示しているのかもしれないし、じっさいに起こらなかったことも歴史のうちだからだ。

 俺は今、馬券を離れているので、たまたま調べてみたこの程度のことしか言えない。性愛と官能については、まだわからないところが多いので、保留というか、なんというか。あと、明治文学とかはさっぱりです。
 気になったのは、やはり言葉とか、言葉を書こうとか、小説家が小説を書く、その瞬間のこととかだ。


 ――じゃあ、なんにも書かれていないワープロの画面の前にいるとしよう。きみは苦労してようやく一つの言葉を、あるいは一つの文章を書いた。その瞬間、きみは無数の可能性の中からたった一つを選んだのだ。その見方を選んだ。他の見方には目をつむった。つまり、それ以外の可能性をすべて棄てた。きみはきみが選んだ言葉以外のすべてを殺した。だとするならば、きみは、きみが殺したすべての言葉、きみが投げ捨てたすべての可能性に対して責任を負わねばならないんだ。

 ――脅かしてごめんね。そう、ほんとうのところ、きみは偶然その言葉を、文章を書いてみただけなんだろう。他のことを書けるかもしれないなんて、微かに頭の端をかすめただけなのかもしれない。だから、責任なんてとる必要はない。書けなかったすべての言葉に責任をとることなんか誰にもできない。そこまで考えなければ書けないなら、こわくてなにも書けやしない。ただ、ぼくはきみに覚えておいてもらいたいんだ。きみがなにかを書いたということは、なにかの犠牲の上に成り立っているということを、そのことをほんの少しの間だけでも、思い浮かべてほしいんだ。

 「小説教室II」より。この前後に、よい例として引用されているのが、田村隆一金子光晴なのだからたまらない。……と、そのあたりも俺は、高橋源一郎経由で読み始めたのだっけ? いずれにせよ、父の本棚にあったからだ。
 ここで引用されていたのは、「木」なのだけれども、もっと直接的に思い浮かぶのは、べつの詩だよね。「四千の日と夜」だ。

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

 ……ああ、そうなのか、そういうことだったのか。「きみはきみが選んだ言葉以外のすべてを殺した」、「一篇の詩が生れるためには、われわれは殺さなければならない」んだ。選べなかったもの、選ばなかったもの、選択肢自体をしらなかったもの。その犠牲。
 正しいと思うことを述べようとすると、四方八方からいろいろの矢が飛んできて、ずたずたにされてしまう、そんな気がする。それだったら、正しさや、そう正義に背を向けたくなる。しかし、そればかりじゃないんだ。言葉というのは、そもそも、ことのは、ことの葉一枚って、そういうものだったんだ。たぶん、きっと。

見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した


 おれのお勧めはフランス書院文庫だ。中でも最高なのはもちろん、牧村僚だな。やつの小説でいったい何回オナニーしたことやら。『濡母日記 レオタードのふともも』だろ、『少年と未亡人ママ ふともも授業』だろ、『義母のふともも 魔性の旋律』だろ、『麗母・誘惑 ふともも倶楽部』だろ。ふとももを描写させたらドストエフスキープルーストヘミングウェイだってかなわない。最高の小説とはやつの作品のことをいうんじゃないか?

 まったくその通りだ。俺は自分で、大船の中田書店で、牧村僚を発見したんだ。なんでったって、こんなに高橋源一郎とは趣味がかぶるのだろうか。競馬、日本野球、その他色々。ぜんぶ、ふともものせいか。


「いったん書かれた文字は口を出た言葉と同じで取り返しがつかないからだ。西洋のある喇叭の演奏家がこんなことをいっている。『ひとたび演奏された音は虚空に消え去り、もう二度と戻ってはこないのです』ってね。その男はそう音盤に録音してからすぐに事故で本人がこの世から消え去ったそうだ。やり直しはきかない。一度しか機会はないのだ。わかるかね」

「失敗してもいいのだよ、森田くん、大切なのはその機会が一度しかないことなのだ。そして、たいていの場合わたしたちは失敗する。残されるのはわたしたちの失敗の記録で、それ以上にたいせつなものはないのだ。わたしはきみたちのように書き直さない。それぐらいなら、また新しいものを、ぜんぜん違うものを書きはじめる」

 チャールズ・ブコウスキーは『死をポケットに入れて』でこう書いてる。

 新しい一行はそのどれもが始まりであって、その前に書かれたどの行ともまったく関係がない。毎回新たに始めるのだ。

 自分が書くもののために、好んですることと言えば、ボクシングの試合を見ることだ。左のジャブがどんなふうに繰り出されるか、上から打ち下ろされる右、左のフック、アッパーカット、カウンター・パンチがどのように使われるか、じっくりと観察する。ボクサーたちがリングに倒れ込み、そこから立ち去っていくのを見守るのが好きだ。そこには学ぶべき何か、書く技術、書く方法に応用できる何かがある。あるのはたった一度のチャンスだけで、それでもうおしまいなのだ。

 そういえば、この『官能小説家』の「おれ」は、ものすごくブコウスキーみたいだ。ファック、酒、競馬。さすがブコウスキー族が書いているだけある。

およそ言葉に魅かれる人間が健康でありうるわけがなかったのだ。

 ブコウスキーはこう書いた。

配管工事がないよりも、文筆業がない方が、この世はずっと暮らしやすいものになる。それに実際この世界には、そのどちらもほとんど縁がなくてすんでいる地域もある。もちろん、わたしは配管工事なしで生きるほうがいいが、それはわたしが病んでいるからだ。

 インターネットなんかで生業でもないのに言葉を書き散らし、垂れ流す、俺、そして君、みんな、プリントアウトだ。


人はふつう大切なことを書こうとする。自分にとってかけがえのない記憶を伝えて書こうとする。それは小さなことだ。まず、きみはきみのいとおしいものを棄てなければならない。そうでなくては、どうしてそれを他人に伝えることができるだろう。きみが守らなければいけないのは、きみが大切に思っていることではない。きみの作品だ。きみが自分を守ろうとする限り、どうして他人がきみの作品を大切だと思うだろう。


「あたし、言葉なんか覚えるんじゃなかった」

 言葉のない世界、意味が意味にならない世界に生きてたら、どんなによかったか。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福の瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは――少なくとも僕はということだけれど――いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。……って村上春樹が言ってた。


 だが、森さん、これが小説家の我が儘な空想でないことをあなたならわかるだろう。あなたたちが華々しくも苦しみに満ちた修羅の道を歩むなら、空想の中で、わたしはもう一組のあなたたちに別の昏くも長閑な道を歩ませよう。わたしたちは心の中に、どこかに別の道が、別の世界への入口があるのではないかという希望を匿し持っている。現実のわたしたちはいつも一つの道しか選べない。それが唯一の道ではないと、最良の選択ではないと知りつつ、しかしその道を歩んでゆく。だが、どこかに別の道が、もっとたくさんの道があって、そこをもうひとりのわたしが歩いているのだ。森さん、夢見るとは、もうひとりのわたしが歩くどこかの道を想像してみることではないのか。

 俺はここを読んでいて、ブランキのことを思い浮かべた。ブランキの『天体による永遠』でいちばん好きなくだりだ。夏目漱石とブランキに似たところがあるなんて驚きだ。いや、なんかわかってるやつは、みんな同じことを感じてるのかもしれないぜ。

だが、何十億という地球の上で我々が、今はもう思い出にすぎない我々の愛する人々といつも一緒にいるのだということを知るのは、一つの慰めではないだろうか? 瓜二つの人間、何十億という瓜二つの人間の姿を借りて、我々がその幸福を永遠に味わってきたし、味わい続けるだろうと想像することもまた、別の楽しみではないだろうか? 彼らもまた明らかに我々自身なのだから。


 おれは足元に置いてある新聞をとった。昨日の夜切った爪が床の上に飛び散った。ああ、バカ! おれは気を取り直して新聞を読んだ。
「登校拒否児童の増加。深刻な事態に」
 わからん。どこが深刻な事態なんだか。登校拒否をする子どもが増えている。いい傾向じゃないか。
 小学生の頃、おれは学校に行くのがイヤでたまらなかった。なぜ、行かなくちゃならんのか、いくら考えてもわからなかった。

 考えてもみてくれ。朝は眠いのに起こされ、それから半日もあの狭くて固い椅子に座らされ、なにをするかというと意味もわからんことを無理矢理暗記させられるだけだ。いったい、どんな悪い事をしたからといって、そんな残酷な目に遭わなきゃならんのだ。まともな子どもなら誰だって登校拒否したくなる。なのに、まともに反応すると病気みたいに扱われる。明治になってはじめて学校ができた頃、親たちは子どもを学校になんか行かせるわけにはいかんと反乱を起こしたそうだ。あの頃の親はいまよりずっとまともだったんだ。

 まったく、昨日書いたこととそっくりなので、布団の中でびびってしまった。そういえば、昨日も高橋さんだったか。ブコウスキーの『くそったれ!少年時代 (河出文庫)』にも、似たようなことが書いてあったと思うぜ、たしか。

 ……とりとめのないままここで終わろうか。俺は、こんなにも、なにを書き写したかったんだろうか。何を言いたかったんだろうか。もういいや、糞でもしよう。それじゃあ。

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