ぼくと言葉のこと

 ぼく、上の記事をにせの関西弁みたいななにかで書いた。関西弁といってもいろいろあるんやろうが、まあそういうあたりをネイティブにしてる人にはちょっと悪いような気がしとる。自分がふだんの言葉でよう書けん恥ずかしいことを、わざわざよその方言風のデタラメかぶってごまかしとるからや。自分の言葉でないふりをしとるし、それで自分の恥ずかしいもんをよその方言にかぶせとるからや。

 でもな、ちょっと考えてみたんや。上の文章を、ぼくが「だ・である」や「です・ます」で書いたらどうなんやって。なんちゅうのか、それこそ、もっとなにか被せたような、そんなもんに思えてくるんや。想像すればするほどそうや。恥ずかしいというより、自分の内面のもやもやが、うまく吐き出せんと、そう思える。いんちき方言の方が、ずいぶんストレートに出せたんやと、そんなふうに思う。

 そんで、ちょっと考えたんやけれども、ぼくは札幌生まれの湘南育ちなんやけれども、西の方の言葉と無縁やったわけやないのや。親父がな、たぶん小学生くらいまで広島の大竹とかいうところにおって、そのあと大阪の茨木いうところに引っ越したとかいう話やったと思う。その後、親父な、東京の大学に出てきたわけで、なんや西の言葉がネイティブや。

 そうやった、そうやった。親父の一人称は「わし」やった。少なくとも、家庭内ではそうや。「わし」じゃ。ぼくが子供のころ、父の会社の人が、「わしって自分のこという人はじめて見ました」とか言ってたように思うで。もしも親父が「ぼく」とか「わたし」とか「おれ」とか言い出したら、まるで似合わんわ。

 そいでな、その「わし」のニュアンスは、お年寄りのそれやなくて、たぶん広島で当たり前に使われとる「わし」なんや。だからたぶん、そのくらいの頻度で、語尾の方に広島か大阪のニュアンス混じっとったにちがいないで。あからさまな訛りではないんやけれども、「しとる」とか、そういうくらいのもんで、ぼくもなんや「なになにしとる」ってのは、これはまったく普通に出てくるもんや。

 あとな、一緒に暮らしとるおじさんがおってな、親父の弟なんやけれども、こっちはあからさまな訛りがあった。おばあちゃまとな、話すときなんかは、とくにそうやった。ただ、おばあちゃまは、前にも書いたけど、東京のお嬢さま育ちやから、山の手言葉みたいなの使いよる。おかしな話やった。
 
 でな、ぼくが向こうの言葉に衝撃を受けたことがあってな、それはおじさんや親父が切れたときなんや。あんまり思い出したくない話やけれども、ほんとうに人間がぶち切れたときに出てくる咆哮いうのか、そういうもんがあって、そこでな、ぼくが聴いたのは、ぼくには意味のわからん西の言葉やった。端から見ていてな、「これはどえらいで」思うたわ。
 
 そんときからやろか。なにか、人間の本音いうのは、方言みたいなもんから出てくるんちゃうかと、そんなふうに刻まれてしもうたのかもしらん。こんなん、今考えて、なんとなく思いついたようなことやけれど、どうもそういうところがある。ぼく、小学校の言葉狩りにえらく反感いだいたんやけれど、それはぼくの中にもあんがい非標準語みたいなもんが根付いとったのかもしれん
 
 そんなわけで、ぼくはどっかしら、方言っぽいところがあるのかもしらん。方言っぽさっちゅうのがなんかわからんが、どっかにリアルな言葉があって、ふだんは隠しとるけど、なんかあったら出てくるんや。でもな、悲しいことにな、こんなん読めばわかると思うけども、ぼくに方言があるわけやない。SSの将校とかにすぐに気づかれて、きんたまに拳銃突きつけられるで。
 
 そうや、ぼくはぼくの語り言葉がほしいのや。文章とはちょっと違うところでの話や。それで、これを読んでる人にぼくと話した人は一人もいないと思うんやけれども、ぼくがフランクに話すときはな、むちゃくちゃなちゃんぽんや。いろんなインチキ方言いうか、イントネーションまざっとる思う。そんでぼく、「育ちは秋田なんで」とか、「ぼくのフランス語はアルザス訛りがあるんで」とか言う。
 
 そんでな、やっぱり失礼な話やと思う。地方と都会やらな、方言と標準語やらな、あるいはもっと、国とか民族そういう単位で、いろいろな人がいろいろな意味でひき裂かれている言葉のな、わざわざずれてるところを上っ面真似してな、こんなんようない。でもな、ぼく、もっと自分がストレートにしゃべられる言葉ほしいんや。そいでな、これもちゃうんやけれども、たまにはこんなん書くんや。ほな。