アルファ 〜なぜ俺はα550を買ったのか?〜

a

 法事があった。母方の祖父の七回忌だ。同時に、曾孫のお披露目があった。俺の祖母の曾孫、俺の従姉妹の子供、まだ赤ん坊もいいところ。従姉妹の結婚と出産については、なんとなく話を聞いていた。
 俺の属する、祖母から数えて三代目のいとこ関係者は男三人、女三人の計六人、結婚したのも子をもうけたのもまだ一人。
 従姉妹の夫も来ていた。大きなRVに乗ってきていた。名前も歳も知らない。大手飲料メーカーに勤めているという。いかにもよさそうなやつだった。よさそうすぎて胡散臭いというところすらなかった。もしサシで話さなければいけない場面があったとしても、なにか適当な話題を見つけられるかもしれないと思った。たとえば、プロ野球とか。
 俺がこれから手に入れられるものの少なさにぞっとした。俺は子供を持つことはないだろう。自動車を持つこともないだろう。海外旅行に行くこともないだろう。
 俺は、あたらしいデジタル・カメラを買うことにした。

b

 競馬場に行って、カメラが辛かった。DMC-FZ30、厳密には会社のカメラだ。会社をふけて馬を撮りに行くのに使っても文句は言われない。
 あまり愛情を持てなかった。購入の選定をしたのも自分なら、使うのもほとんど自分だが、やはり身銭を切ったものではないからか。ただ、悪くはないのだと思う。十分な望遠能力、ふたつのダイアルによる操作性、可動式液晶モニタ。ただ、なぜかわからないが、撮っていてあまり楽しくなかった。楽しいという点では、もっと古いコンデジのほうがずっと上だった。

はっきりいって、かなり気に入っている。ああ、カメラっておもしれえやって、はじめて思った。というか、「自分のカメラ」というのもはじめてだ。バカみたいにシャッター切ってる。

デジカメについてちょっとだけ - 関内関外日記(跡地)

 Caplio GX、これである。とはいえ、いろいろの能力を比べてみたらFZ30がまさる。たとえば、競馬馬を撮りにいくとき。が、しかし、もう俺は疲れてしまった。なかなか合わないピント、足らないISO。パドックで見ていても、もっと小さなカメラのほうがバシバシ撮れているようだった。俺は流し撮りの真似事をして、すっかり腕が疲れてしまった。
 

c

 みなとみらいのノジマだかコジマだかのカメラコーナーでのことだ。俺は新しいカメラのことを考えながら、いろいろのカメラを見ていた。新しいカメラのことを考えていたからだった。
 ふと気づくと、俺と似たような男が二人もいた。ぞっとした。一人は俺と同じサイズで色違いの、timbuk2メッセンジャーバッグをぶら下げていた。
 三十代、男性。なにが似ていたのか。簡単には言い表せない。身なりはとりわけこだわっていないが、最悪でもない。デジタルの流行にもそれなりに乗っているのだろう。新しいマイクロフォーサーズ機を見ているのだろう。ひょっとしたらiPhoneユーザーだし、たぶんiPhoneに興味があるのだろう。ブログをやっているのかもしれないし、はてなダイアリーを持っているのかもしれない。Twitterで毎日つぶやいているのかもしれない。よろしく。でも、きっとおまえらに比べたら、俺の年収は半分以下だ。ふざけんな。
 そんなことじゃない。そんなことじゃなく、あいつらもひどく疲れているように見えた。何事かにひどくうんざりしているように見えた。そういえば、iPhone4の予約に行った女の人から聞いたが、店内は三十代か四十代の男性客ばかりで、みな疲れているようだった、俺のようだったと。
 俺は何事かにうんざりしながら、カメラのことを考えていた。カメラで何をしたいのかまったくわからないのに。たとえば、新しい冷蔵庫を買ったほうが筋が通る。新しい冷蔵庫は今のより大きく、たくさんのものが入る。おまけに省エネだ。新しい冷蔵庫を買うべきだ。
 

d

 カメラ売り場でいろいろの実物を手にとりながら、俺はわけがわからなくなっていた。俺に必要なカメラはどれなのかさっぱりわからない(そもそも必要ではない)。とりあえず、コンデジはいい。GXがほんとうのほんとうに壊れるまで、あれでいい。壊れたらCX-3を買う。今は、それより上のクラスのものだ。FZ30の代わりだ。
 となると、デジタル一眼レフカメラ、になるのか。違うのか。区分がよくわからない。よくわからないので、レンズ交換ができるもの、とする。そして、その中でも大きなものと小さなものがあるようだった。
 俺ははじめ、自分はマイクロ・フォーサーズ機を買うものと思っていた。が、実物を見てもピンと来ない。ならば、手に届く範囲の金額の、より大きなものかと思った。が、それもどうも違うようだ。手に取ってみれば大きすぎるような気もするし、逆に小さすぎて持ちにくいようにも思った。
 性能差はよくわからない。どれを買っても5年前のデジ一もどきより優秀だろう。写真の味だとかそういうものについてはもっとわからない。そんなものがあるのかどうかもわからない。まったくわけがわからない。
 が、ひとつ気づいたことがある。俺はあまり愛着の持てぬFZ30の可動式モニタは好きだった。上に持ち上げて見上げたり、地べたに置いて見下ろしたり、なかなかよかった。どうせライブビューを使うならば、ここが可動しなくてはおもしろくない。俺はバリアングルだとか、マルチアングルだとか名前のついた、そんなカメラを買うことにした。まさか次の日の晩に注文のクリックをするとは思っていなかった。

e

 候補はいくつかに絞れた。まるでわけのわからぬ出馬表を見ていたら、大雨が降りだした、そんな気持ちだった。雨が降ったならば、イルドブルボンの子でも買えばいいのだ。店舗で気づき、ネットで情報も見た。

 LUMIX DMC-G2。タッチパネル式。タッチパネル式でピントを合わせるのは、iPhoneでもできる。すばらしい。しかし、ムービーを押し出すのが気になる。俺は今のところムービーに興味はない。GH1にしても同じことである。ムービーいらないから安くしてくれ。
 G10はあるような気がした。しかし、またLUMIXかという気もした。悪くはない。しかし、俺は毎回違うシャンプーを買う。

 OLYMPUS E-620。フリーアングルライブビューを押し出してる。よい動きだ。しかし、同時にアートフィルター機能を押し出しているのが気になった。「いや、俺それPhotoshopでやるからいいよ」という気持ちだ。無論、実際にPhotoshopでやるのか、できるのかというのはべつの話だ。ただ、なんとなくそんな気持ちになる。それはカメラに搭載されていなくてもいい。少なくとも、俺のカメラには。その分、安くしてくれないか。

 NIKON D5000。キムタクのカメラ。キムタクはこう言う「つまり、好きに撮ればいい」。まったくそのとおりだ。iPadの使い方に正しいもまちがいもない。ただ、このカメラを選ぶのはひどく正しい。俺はそう確信したし、今も確信している。たぶん、これで間違いはない。とはいえ、たとえばこれを手にとったとき、店員に声をかけて「これ包んでくれ」と言うきにはなれなかった。ペンディングだった。連勝式馬券から絶対に外せはしないが、かといって本命という気になれない、そんな馬はよくいる。

 Sony NEXシリーズ。これは俺を惑わせた。ひどく小さく、いびつにも見える。姿形は嫌いではない。これならば、カーゴパンツの下のポケットに入れておくこともできるだろう。が、それではコンデジと同じではないのか。コンデジより上を買うつもりではなかったのか。とはいえ、小さくても高性能なのかもしれぬ。見分けがつかない。
 と、まだこれに使えるレンズが少ないという話を目にした。レンズを交換する。そのような要素はすっかり忘れいていた。なぜならば、エントリークラスのデジ一を買う金はあっても、レンズの沼にはまるだけの金がないからだ。セットのレンズで十分という気持ち。が、そのような要素があった。そして俺は閃いた。

 俺の父親はカメラ好きで、カメラオタといってもいいくらいのカメラ好きなので、そんなに何台もいるのかと思うカメラと、それ以上に余るたくさんのレンズを持っていた。その息子の俺はカメラにとんと疎いのだけれど、おそらく実家にあったカメラの類はおそらくミノルタの名前がついていたように思うのである。そのミノルタコニカが合併した会社からカメラを引いたら後に何が残るのか俺にはとんとわからない。

コニカミノルタの世界 - 関内関外日記(跡地)

 俺の父親はミノルタのカメラ、すなわちαを保有していた。そしてレンズを保有していた。また、今も保有している可能性が高い。これである。急にレンズ交換の夢が広がる。カメラに疎い俺とて、広角と望遠、マクロの違いがあるくらいは知っている。どうせならば、レンズはあったほうがいい。この親子仲については多くを語らぬ。ただひとつ言えるのは、俺はあさましい人間であるということだ。それに、仮にこの方向から手に入らなくとも、ジャンク品のような中古レンズを買えばいい。それならば買えそうだ。傷があったとしても、Photoshopで修正すればいい。
 俺はαを買うことにした。NEXではないα。もうソニーはNEXに注力するやもしらん。家電店の売り場を見てもそう感じた。だが、それもいい。それがいい。俺はみなと違うものがほしい、よくいる人間のひとりだ。

f

 法事から帰った俺は、すぐにインターネットでα550を注文した。なぜ330や380でなく、550か。だいたい550の実物は家電店になく、触ったこともないのに、だ。その理由は次の通りである。

 オートHDR。このようなものである。さて、先におれはアートフィルター的なものについて、Photoshopでやるからいい、と書いた。これはどうだろうか。
 実は、すこし悩むところなのである。が、しかし、これはカメラの持つべき機能だ、そう思う。パシッと撮ってサッと合成する。それでいい。それは、そう撮ったのだ。だいたい俺の目には、暗いところのディテールも、明るいところのディテールも、写真に撮ったよりはよく見えてるはずなのだ。違うかもしれないが。
 また、HDRでRAWデータを作れないというが、そんなのもどうでもいい。俺は俺の下流DTPの世界で、何千、いや何万のしょうもない写真を補正、修正してきた。無茶苦茶に色かぶりした写真を、ピントの合ってない写真を、ポジに傷のある写真を、カビの生えた写真を、解像度の圧倒的に足りない写真を、少しでもマシに見えるように、補正、修正してきたのだ。そのせいで、紫色の花など見たら、脳内でCMYK変換して、レベル補正のダイアログが勝手に開き、ヒストグラムの山形をどういじろうか考えるようになってしまったくらいだ。まあ、嘘だが。
 それらに比べたら、最近のデジカメの吐き出すJPGなどは、どれもこれも素直で美しい。そのJPGを色調補正して失われる要素がどれほどのものか。いったい、どのメディアで、どのサイズで出力するというのだ。少なくとも、俺は俺の職場のMacintoshと、部屋のREGZAできれいに見られればいい。日記用に切り出したサイズで俺がきれいだと思えるように見られればいいのだ。いったい、そんなにたくさんの画素がこの世に必要なのか?
 実のところ、俺はあまりにPhotoshopで尻拭いのような作業をしすぎたために、写真というものがよくわからなくなっている。どっからどこまでがカメラなんだ、写真なんだと。いずれ考える。考えないかもしれない。

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 そして火曜日にはカメラが届き、帰り道にシャッターを切りまくった。暗くてもピントが合う。シャッターが切れる。それだけで楽しくてしょうがない。そうだ、俺の目には見えてる。カメラめ、お前も見るべきだ。ちくしょう、楽しい。こんなに明るく撮れるなら、もう少し暗くすることもできるだろう。このあたりの空が真夜中にも赤いのを撮れるだろう。俺の見たものをみんな撮ってやろう。見られないものも全部撮ってやろう。くそったれ、俺が寿町に転がり落ちるか、首をくくるかするギリギリまでカメラは手放さねえ。ちくしょう、俺は写真のことをよく知らねえし、説明読んでもいまいちだ。だいたい数字が出てくるのがいけねえよ。それに、そりゃ、もっといいカメラもくさるほどあるだろう、だが、俺はこれを買ってしまったんだ、だからいいんだ、これで! 行くぞ、どっかへ!
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