「もう学校行かなくていい」って文部大臣とかが言わないから俺が言う

 こんなん読むと胸糞悪くなる。だいたい、こんなん同根で、学校以外の世界が小学生にも教師にも開けてねえからだろ。いじめられてるやつに逃げ場は見えないし、教師はクラスの中で処置しなきゃいけねえと思い込んで、こんなことになる。もういいから、とっとと学校行かなくていいような感じになれ。親も学校とか行かせるな。小学校なんかで学ぶことなんてねえよ。逃げ場のない教師が逃げ場のない生徒相手にした閉鎖世界、心殺し、人殺しのクソ舞台だ。仕組みっつーのか、構造っつーのか、システムっつーのか、おれにはよくわかんないけど、なんかもう根本的に間違ってる。
 だからさ、たとえばイジメ問題とかで、校長やらなんやらが出てきて必死に否定して、「おまえら人間かよ」みてえな論調になるし、おれもそういう気持ちになるけどさ、たとえばそいつら自身だってそう見られるのわかってんじゃん。それなのに、ああする、ああ保身するっつーのは、その、否定によってえられる強烈な動機づけみたいなもんがあるわけだろ。逆にいえば、イジメの発覚ですげえデメリットがあるっていう。それで、聞こえない、聞こえない、子供の声も、その親の声も聞こえないってなって、自殺するやつがまた出てくる。
 そんなんむしろ逆で、イジメとかそういうの見つけたら褒められるべきだし、対処すんのに飴玉やるべきであって、「なかったことにしたで賞」とかあんのはおかしいし。とはいえ、見つけたらどうすんだってなったら、書類仕事とか親の対応だのなんだので手一杯の教師がやんなきゃいけなくて、小2相手に「おまえメンヘルだろ」ってプリントアウトわたすとかいうおもしろ状況になる。そこんところでたぶん逃げ場ねえし、かといってスキルも時間もない。こんなんでものを教える技術を磨けるわけもねえし、しょうもない憎悪と疲弊でなにもかも台無しになっていくだけだろ。
 だからもう、ちょっとでも手に負えないと感じたら、教室の外、学校の外に投げる、明確な仕組みが必要じゃねえの。恐喝や暴行、傷害だったら警察っつー専門家でいいし(警察が輪をかけてすごくでかいクソという可能性は否定できないが)、いじめの方も加害者のガキをロボトミーすんならそういう医者に(いないだろ)、あるいは、もう加害者の家庭が救いがたいとかだったら、しかるべきなんかに、だ。もちろん、被害者の方もケアしきれないってなったら、専門家に任せればいいんだ。
 だったら、その施設や専門家やしかるべきなんかを屏風から出せってことになるだろうけど、まあたぶんないんだろ。ないものねだりみてえな、そんなんだろ。
 そうしたら自衛しかねえし、人の親だったら、ガキにはまず「はい」と言える素直な心じゃなくて、むかついたり嫌だったりしたら、「ノー」って言えるように教え込まなきゃだめだ。人間あんまり気づかないもんだし、気づきたくないときにはさらに気づかないもんだし、そこんところで意思表示できねえと、話し合いにもならねえし、どんどんどんどん事態が悪くなっていって、いきなりドカン、だ。プリンス・オブ・ウェールズとレパルス沈められたときにチャーチルが嘆いたとか嘆かなかったとかいうあれだ。もはやこれまでって死ぬか殺すかするまえに、嫌なものは嫌だと、言っていいってふうにしてくしかねえよ。言うのがあたりまえだと。まあ、世の中はコミュニケーション強者のマッチョが作ってるから、そうはならねえか。
 でもさ、だからさ、いじめられてるやつに言いたいけど、とりあえず「ノー」でいいんだ。学校とか行かなくていいってところにもっていくしかないし、もうそれしかないし。代案とかそんなんもどうでもいい。不登校、ひきこもり、ニート、ただそれでいいじゃねえの。俺もなんとか「ノー」の意思表示できたから、小学校すげえ長く休んで、大学も辞めて、まともな職にもつかずひきこもって、そのおかげで死なず殺さずで、イカ娘とか見られる。結果はまったくの偶然だが、仮病、ズル休み、逃走、それがなかったら、俺はぜったいに死んでたし、確信がある。生きてたほうがマシかどうかというと微妙なところで、先のどん詰まりも目に見えてるが、まあ成り行きだ。
 だいたい、もうまともに学校行ったところで、おおよその人間はこの世でまともに生きられる職も居場所も用意されてねえし、年寄りから見たら子供なんてのはてめえのクソ処理機械かATMみたいなもんだ。だからこそこの社会がクソ地獄として用意されてんだ。あまり価値を生み出せない人間から単純な職場を奪っておいて、優秀なやつがバカを低級機械としてしか見てない世界だ。尊厳なんてものは使用済みの湿布薬と一緒にゴミ箱の中だ。なんか体毛とかついてる。
 だからもう、部屋から出たくないなら出なくていいし、どっかから飯が出る限りはそれ食ってふんぞり返ってればいい。どうしようと勝手だ。食うものも住むところもなくなったら、道っ端に落ちてる残飯拾って食うのもいいし、そこらのやつぶっ殺して奪ってもいいし、好きにしろ。そこに通りがかったのが俺でも、それはもうしょうがねえし。社会がおまえをその程度のものとして扱うならば、おまえにとって社会がその程度のものだってことだ。ただ、おまえにとっておまえほど価値のあるものはないし、好きにふんぞり返ってればいいんだ。親も教師も他の人間もすべてくそったれだ。もちろん俺にとってもおまえはしょうもないクソだし、おまえが金持ちの子だったりしたら、俺が八つ当たりで家に火をつけるかもしれねえけど、だいたいそんなもんだ。いつかろくでなしの世界が、ダメ人間の生きられる世界が来たら楽しいが、その望みも薄いだろう。まったく、好きにしろ、勝手に生きろ。
 

……
ミハイル・バクーニン『鞭のドイツ帝国と社会革命』より

 それでは、私はいっさいの権威を排斥するものであろうか? このような考えは、私の本旨では全くない。長靴のことなら、私は長靴屋の権威にまかせよう。家屋、運河、鉄道については、建築家や技師に相談する。こうしたたぐいの専門知識については、それぞれの物知りたちに尋ねもしよう。しかし私は、長靴屋にも建築家にも学者にも、彼らの意見を私に無理じいさせようとはしないのだ。私は遠慮なく思いのまま、しかも彼らの持っている知性、性格、知識にふさわしい尊敬をもって、彼らの言葉に耳を傾けよう。しかし、批判し、検査するという私の持つ犯しえない権利は、自分に保留しているのだ。
 私は、たった一人の専門的権威に意見を求めるだけでは満足すまい。私は、多数の権威の門をたたこう。私はこれらの権威の意見を比較検討し、もっとも正しいと思われたものを選びとるだろう。しかも私は、専門的な問題においても、およそ不可侵の権威といったものを承認しない。したがって、しかじかの個人の誠実や真摯をどんなに尊敬するとしても、私はなにびとに対しても絶対的な信用をおかないのだ。このような信用をいだくことは、私の理性、私の自由、私の仕事の成功にとってもまた、致命的なのだ。それは、私をただちに愚かな奴隷へと転化させ、他人の意志や利益の道具に墮落させてしまうであろう。

 私が専門家の権威の前にぬかずくのは、私自身の理性で納得して、この権威を自分に課したからである。私は、広範囲な人間知識を、その発展のすみずみまで知り尽くすことができないのを知っている。どんなに偉大な知性の持ち主でも、全部を知悉することはできないであろう。したがって、その結果として、科学においても産業においても、分業と協業とが必要になるのだ。ギヴ・アンド・テークというのが人生なのだ。

 ……しかし、これらの学校からは、権威の原理の些細な適用ないし表現さえ、徹底的に除去されるであろう。それらは、もはや学校でなくなるはずだ。それは、生徒も先生もいない民衆のアカデミーとなり、そこで、民衆は、必要と認めるなら無料の教育を自由に受講し、他方、彼らが持っていない知識を彼らに授けるであろう教授たちに対して、民衆自身も、その豊かな経験に基づいて、逆に多くの事がらを教えることになろう。したがって、これは、教育ある青年と人民のあいだの相互教育、両者のあいだの知的友愛の行為であろう。

 クソったれ、こんなの夢のまた夢だ、ちょっとバクーニン出てこい、話があるからそこの角の立ち飲み屋で待ってろ。おまえのおごりだ。

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