サンデル読んでるわけでもないのでよくわからんで

※このごろもやもやしているものをぶわっと書きだしてみただけなので、何の話題かというリンクも貼ってないので適当に検索してください。

 発端はビル・ゲイツの発言を紹介するような記事で、曰く「原発事故での死者の数は石炭かなんかほかの方法に比べて少ない」とかそういうので、ゲイツにかぎらずそういう論はたまに見かけるんだけど、疑問に思うのは「人間の死というのは生物学的な死」だけなの、というようなこと。生活や人生の破壊というのは、死に等しいくらい大きなダメージあるんじゃねえのかという。なぜことさら死者の数にこだわるのかという。むろん、家を失ったりした人を死者扱いするわけでもないし、炭鉱労働者なら炭鉱労働者の死を軽んじるつもりもないが、結果的にそうであるとしても、やはりそこんところは釈然としない。ゲイツはすべてを失っても金銭的補償があれば満足するのか、それとも生活基盤や人生なんて裸一貫からあっという間に立ち直らせることができるのか、お前ならできるんだろうけれども。
 そういうわけで、そのあたりの生活軽視、軽視しているわけではないんだろうけれども、そこんところを無視した「低コストの原発」なんてものは信用できねえってのはでかいし、昨日まで続いてきた生活というものを軽く見るな、みたいなところはある。もちろん、昨日まで続いてきた生活がたいへんひどいというケースもあるだろうし、濃淡あるにしても、少なくともこの今の日本の水準において、おおよそにおいてというあたりで。ゲイツの国では生命も生活も「life」なんじゃないのか、よく知らんが。
 しかしまあ、一方で、たとえば、浜岡原発停止が決まって原発頼りの地元の生活が困りそうだという話がある。原発による自治体への収入、原発作業員がお金を落とす飲食、宿泊、その他の産業。じゃあ、これらの生活、ライフはどうなんのということも出てくる。人間の生活が大切だというのなら、重く見よというのならば、そのために浜岡は長く存続させるべきではないのか。さあ、どうだ言え、言え、いや、ちょっと待てって、しかし、俺が人間の生活というものに重きをおこうというスタンスでいようとすれば、それに対して答えに困る。「原発の危険性はもっと重大な形であなたがたの生活を損なうだろう」とか、「あなたがた以外の大勢の人間の大きなリスクになるだろう」というのは正論だろうけれども。
 さらにやっかいに、もうひとつ思い浮かぶものがある。原発とも災害とも関係なく台無しになる人生のこと。震災の影響で倒産する企業が出てきているが、それ以前に毎日毎日かならず企業は倒産してきたし、人間は失業してきて、人生や生活が台無しになってきていた。それは自己責任、能力の無さ、だれも同情しない、そんなものの山がある。あるとして、じゃあ、原発作業員相手の商売で飯を食ってきた人間は、原発産業のリスクを見通せなかった自己責任と言えるだろうか。かしこいやつ、能力のあるやつは言えるだろう、強いやつは言えるだろうが。
 ちょっと前に読んだべつの話題があって、すごい縫製技術を持った日本のパートのおばちゃんの技術が買いたたかれているとかいう話。しかし、たとえばすごく腕の良い植字工がいるからといって、写真写植機を叩き壊すべきか、電算写植やDTPの発展を否定すべきだったのかどうか。炭鉱夫と炭鉱の町のために、エネルギーの転換は行われるべきではなかったのか。この世の歴史でラッド将軍が勝ったことがあったのだろうか。
 もし、ラッド将軍が勝つべきときがあるとすれば、今現在の原子力についてだろうか。よくわからない。ただ、原子力の否定が退行であるようには思えず、たんに古い技術になるのではないかという、そういう見方もできるだろうし、見るべきかもしれない。俺はどうもラッダイト的な意識が強い人間であるものの、科学技術の発展について否定的になれない。やがては人間働かなくて済むようになるのが理想なのだが、そのためにもロボットメイドは必要だ。
 では、来るべき新しいエネルギー技術とはなんだろうか。俺にはよくわからんが、原子力に取って代わるなにかひとつでなく、いろいろのものへの分散化ということになるのではないか。風力か地熱かでなく、風力も地熱も温泉もなにもかもでリスクヘッジしていくしかない。
 あるいは、消費量の話というと、節電の心掛けみたいなものもあるだろうが、省エネルギー製品、というやつもある。震災前だったと思うが、藤沢かどこかの会社が振動発電の研究をしているというドキュメンタリー番組を見た。なにか小さくてぷるぷる震える板から微量の電気を作り、その微量の電気でLEDを光らせる。道路の振動から街灯を光らせられないかとか、そういう話。あるいは、大型船にたくさんつけて、モーターの振動でやはりLEDを光らせられないか、無線LANの電力を供給できないかとか、そういう話。
 その技術がどこまでかわからんが、どうも俺は新たなるエネルギーについて感じるのは、このイメージだ。微量に発電し、微量に使う。そこら辺のものから生み、そこら辺で使う。もしも自販機が自身の太陽光発電かなにかで自立しているのなら、そこに文句を言うやつはいないだろう(ただ、太陽電池を作るのにどれだけのコストを? というのは考えられなきゃいかんが)。むろん、大工場や大システムには大規模な電力が必要だが、そうでないところはそうでないなりに、ヘッジしておく。使うがわにおいても、たとえば白熱球からLEDになったように、電気消費量が減る方向での発展もあるだろう。まあ、スマートグリッドとかいうのがそれにあたるのだろうかわからんが、たんに割り算で出した単価によってではない、分散化、そのあたりに落ちつくしかねえんじゃねえのかと。
 あるいは、大気汚染が問題ならば、大気汚染に強い人間に改良すればいいと言った糸川博士のアイディアではないが、人体を改良して暑さに強くクーラー不要、寒さに強く暖房不要にしてしまうのもいいだろう。いや、いいかどうかというとわからんが、そういう方向性も考えていいはずだ。それが極端にしても、何曜日に休むのだとか(どこかの国で誕生月ごとに休日が違うとかいう実験的なことをやっていなかったか。まあ、今どきは産業別なのだろうし、不動産屋や理容店は今までもそうだったのではないか)、どんな服を着るのだとか、いろいろと変えていける余地はあるはずだ。
 ただ、やはりそれでもそれなりに大きい発電システムは必要なのであって、たとえば地熱となると温泉地の反発という話が出てくる。ここでやはり生活の、ライフの話になってしまう。地熱発電のせいで温泉が出なくなったらどうすんだ、と言われたら。そこで、「温泉より電力だろ」と片づけるのは不誠実なような気もするし、たとい温泉地でないところに建てるにしても、周囲の自然環境にどれだけダメージを与えるかわからん。いくら地熱発電が温泉に悪影響を及ぼさないという研究があったところで、原子力が安全だという前提がぶっ壊れたいま、どれだけ信用されるのかという。
 まあしかし、とどのつまり、個と全体の関係みたいなところの話になるのであって、要するになにかしら人間社会の根本か基礎かわからんが、その利害というか調整というかなんといってわからんが、そこのところの話になる。俺にはその乱麻をどうにかする刀がなく、あるいはこの世にないのかも知らんが、サンデル読んでるわけでもないのでそこで行き詰まってしまい、どうにも考えがまとまらず、こうして試しにしてみたところでまとまらんので、そのまま放りだしておく。