イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』を読む

見えない都市 (河出文庫) イタロ・カルヴィーノである。である、と言ったところで字面くらいしか知らない。本牧ブックオフでたまたま手にとった。ここしばらくのところ夜道を走るようなことばかりしていて、ろくに本も読んでいなかったが、これは読み始めるととまらず、読みきってしまった。感想文のメモの内容で差別化できる自信がないので、有り体に言ってしまえば、これはそうとうにすばらしい本だ。日ごろ、あれがよい、これがよいと述べているなかでも、とくべつによい、と思った。たとえば俺はこのところ朝晩にオートミールを食っていて、かなりよいと皆につたえたいところだし、じっさいにそうもしたが、それよりもずいぶんよいのだ。わかるだろうか。わからなくてもよい。

 ―「恐れながら陛下、陛下の御指図により唯一無二、最初にして最後の都が汚れない城壁をいよいよ高くめぐらしておりますその一方で、そのために席をゆずって消え失せ、もはや再興されることも、また思い出されることさえも叶わぬ、あり得べき他の諸都市の亡骸を私は蒐めているのでございます。どれだけ高価な宝石も償うことのできない不幸の名残を御承知いただけましたならば、そのときこそ、窮極の金剛石がさし示すはずの重みの正確な価を量り知ることも可能でございましょうし、また御計画の計算を最初からやり損なわれずともおすみになるでしょう。」


 というわけで(どういうわけで?)、マルコ・ポーロフビライに帝国の諸都市を報告しているような体裁になっている。「アルミッラがこのようになっておりますのは未完成であるのか、あるいは……」、「ソフローニアの都は、二つの半都市から……」、「エウサピアの都市以上に人生を愉しみ、不安を逃れたがる都市はございません……」、「ベルサベアにはこのような信仰が言い伝えられております。空中を漂うもう一つの……」、「二種類の神がレアンドラの都市を守護し給うとのことで……」というような調子で、55の都市についての見聞録が収められている。その合間合間にマルコとフビライ紫煙漂うようなやりとりが挟み込まれているという按配。この配置も精密に構築されたものらしいが、よくわからぬ。わからぬが、ある種の反復が読書体験になにかしらの影響を与えていないとも言えない。
 しかしまあ、自由奔放に紡ぎだされるいろいろの都市、都市、都市。これに浸るだけでえもいわれぬ心持ちになるというもの。俺はこういうのが好きだ。そしていろいろの書物を思い出す。それはダンセイニ卿の「世界の涯の物語」であり、稲垣足穂の「黄漠奇聞」、いや、「一千一秒物語」の都市もそうだろうか、それにボルヘスの図書館であり、ガルシア=マルケスの大佐が手紙を待っている都市。小学校か中学校のころか読んだ高橋源一郎の『惑星P-13の秘密』などは、新しい世界文学をやっていたのだろうかなどと今になって思いもする。ゲームになるが、松野泰己のタイトルは都市や世界を強く感じさせるものだし、FF12などはそこにたいそう浸ることができて好きだった。あとはたとえば、柳田國男の『遠野物語』でいちばん好きな箇所といえばここだ。

海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりという。見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年ごとに家の形などいささかも違うことなしといえり。

 見馴れぬ都のさま、これに対する夢想というのが俺にとりついて離れない。見知らぬ都に灯がともりだすのは「白虎野の娘」だが、平沢進にもそういうところがある。横尾忠則の絵で一番好きなのは『ナポレオン、シャンバラ越え之図』であって、なにか街の灯が輝いているようでその部分がいい。

 マルコはとある都会に入り込む。そして彼が広場で見かけるものは、あるいは彼自身のものとなっていたかもしれない一つの人生、一つの時間を生きている男の姿だ。もしもずっと昔のあのときのままに止まっていたら、あるいはずっと以前のあのときに四辻のあの道をゆかずに反対の道をゆき、そして長い長い彷徨ののちにこの広場の、今この男がいる場所に来ていたとしたら、今は自分がこの男のかわりにそこにああして立っていたのかもしれない。今となっては、そのようなほんとうの、あるいは仮定の過去から彼自身は締めだされている。立どまっていることはできない。またほかの都市まで旅を続けてゆかねばならず、そしてそこではまたもう一つの過去が、あるいはあり得べき彼自身の未来であったもの、そして今では他人の現在となっているものが彼を待ち受けている。実現されなかった未来は単なる過去の枝だ、枯れ枝だ。
 「お前は過去をふたたび生きるために旅をしておるのか?」というのがこのとき発せられた汗(カン)の問であるが、それはまたこんなふうにも言ってよかった―「お前は未来を再発見するために旅をしておるのか?」と。
 そしてマルコの答は―「他処なる場所は陰画にして写し出す鏡でございます。旅人は自己のものとなし得なかった、また今後もなし得ることのない多くのものを発見することによって、おのれの所有するわずかなものを知るのでございます。」

 あるいは、俺の夢想というのは、あり得たかもしれない自分の人生をそこに見出したいがためなのだろうか。俺が見知らぬ街のダイエーやイトーヨーカドーを好むのも、なにかそういうところがあるのかもしれない。俺は、河川敷でソフトボールをするのに、いったいいくつのものが欠けているのか数えながら自転車を漕ぐ。そのとき数えられないものを同時に数えている。
 そういえば『見えない都市』は、語られないものについての語りでもあった。

「まだ一つだけ、そちが決して話そうとしない都市が残っておるぞ。」
 マルコ・ポーロは首を傾げた。
ヴェネチアだ。」と汗は言った。
 マルコは微笑した。
「では、その他の何事をお話し申し上げているとお思い出ございましたか?」

「他の都市の長所を知るためには、言外には明らかにされぬ最初の都市から出発しなければなりません。私にとっては、それはヴェネツィアでございます。」

 見えないことによって見えるもの。記憶と物語ること。追憶、遠景……さて。さて、都市とはなんなのだろう。都市をめぐる話は好きなような気はする。ただ、学もないので都市論などと言われてもよくわからない。それがどんな学問の分野で、なんの知識が必要なのかすらわからない。なにかぼんやりとしたところがある。ただ、なにか根底にあって、自分の志向にとってひとつづきのものがある。内と外、あるいは結合点かもしれない。語ろうにも語れないところがある。
 ……今、俺の思考は自分の内部に降り始めて帰ってこない感じなので、ここで終わる。あるいは、今後のこの日記はすべてこの続きであるといえる。それとも、ずっと続きだったのかもしれない。ちなみに、この日記の表題はこの書の次の箇所からとったものだ、ということにしておく。

……しかしそうであれば、なぜ都市でなければならないのか? 内を外から分かつ線、車輪の轟きを狼の吠え声から隔てる線は何か?

 
 
 
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