「僕」から「俺」へ、「だぜ」から「だべ」へ


 この話題を読んで昔のことを思い出した。幼稚園から小学校に上がったときのことである。具体的にいえば、西鎌倉幼稚園から腰越小学校に上がったときのことである。具体的に話さねば話にならない。それぞれの園風、校風の違いが背景にあるからだ。腰越・津、西鎌倉あたりの人間ならばイメージできるかもしれないが、西鎌倉の方はどちらかといえばハイソ、山の手であり、腰越といえば漁師町の下町といえる。俺はカソリック系のこじゃれた西鎌倉から腰小へ進学した。果たして、同じ幼稚園から共に進学したのはたった三人であった。
 客観的に、地図的に見れば、鎌倉というさほど大きくもない市の、西の外れの方の限られた範囲の中でのことだ。それでも、子供心に変化は大きかったといえる。戦時下、都会から田舎へ疎開した少年の思い出話など読むと、若干は重ね合わされるところがあるくらいである。
 その中で印象に残っているのが、言葉の話である。一人称は、「べ」と「だべ」が大きかった。幼稚園のころ、ちょっと大人ぶって、かっこつけてつける語尾は「だぜ」だったのだが、小学校に入ってみると、みな「べ」、「だべ」言うのだ。何事につけ人間集団に対して苦手意識と緊張感をもつ俺は、それを敏感に感じ取った。感じ取って、「べ」、「だべ」言うようになったのだ。これは、その当時においてかなり意識したことなので、後付けということはない。証明のしようはないが。
 ちなみに、この「べ」、「だべ」の語尾は湘南弁とでも言うべきもので、湘南を舞台にしたヤンキー漫画も「べ」、「だべ」言ってるだろうし、SMAPの中居君も「べ」、「だべ」言ってるわけである。さらにいえば、最近マボロシを聴いていて、こんなフレーズも出てきた。

市外局番045 その後だいたい7か8で
やたら「べー」とか「だべ」とか語尾につくのが地元の仲間達で

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 俺は0467から045までしか知らず、03の人間が「べー」とか「だべ」とか言うのかどうか知らないが、まあこんな感じである(「じゃん」と言ってるのは漫画『THE MOMOTAROH』のまりん王子くらいではないか?)。俺や弟が「べ」とか「だべ」とか言うようになって、東京生まれ東京育ちで悪そうなやつとはほとんど縁のない母は、「なんか田舎っぽくて変」みたいな難色をしめしていたように思う。

 というわけで、すっかり俺は「俺」になって「べ」とか「だべ」とか言うガキになったわけである。今でも、中居君のしゃべりをテレビで見ると、「ああ、これこれ、この喋り方」と思うのである。ただ、「なった」というより「言うようにした」というのは先に述べたとおり意図したところではあったし、それが同調圧力への屈服、ホモソーシャル的(?……関係あるかないかわからんが、あの時のあの小学校は、「男女七歳にして」かよ、というくらい男女が仲良くしてはならないというような空気が、生徒の側にあった。男と女が一緒に帰ったり、遊んだりしてはならんのだ、という強烈な空気である。小学生の男女の好きだの嫌いだのというのは、フィクションの話だと思っていた)なものへの服従だと指摘されればそうなのかもしれないし、性暴力の体現、内なる帝国主義なのかもしれないし、そうでなくてもいい。正直言ってよくわからん。そんなものは勝手に誰かが診断してくれればいい。内心の方によく言っておくけど、内心どこにいるのかよく知らんのだわ。
 ただ、言葉や言葉づかいがそれを構成する社会や組織、集団と密接な関係があるという点はおおいに理解できる。なぜならば、俺が小さい頃にそれを感じたからである。ただ、だから言葉を変えれば集団や組織や社会のありようが変わるのか、ある方向に正せるのかというと、そりゃどうだろうか。はっきり言って疑問だ。逆じゃないのかという気がする。卵が先かコロンブスが先かという話であって、アメリカ大陸の卵が「や、コロンブスだ、おれたちは発見されたぞ」と言ったかどうかということである。
 そうだ、「べ」や「だべ」に難色をしめしていたのは、母だけではなかった。腰越小学校自体が「ねさよ」運動という言葉狩りとしか形容できない運動を行っていたのだ。これに関する俺の不快感というのは、身体中の穴という穴から謎の白い液体が噴き出るくらいのものであったし、今もってその思いは変わらない。これについては以下のエントリに書いた。

俺の通った小学校には奇妙な行事があった。その名も「ねさよ運動」。語尾に「〜ね」、「〜さ」、「〜よ」をつけるのは、地元の汚い漁師言葉だから、それらを追放せよというのだ。そして、大きな竹に七夕飾りのように自分たちが汚いと思う言葉(=教師がそう望む言葉)を書いて、なんと火をつけて燃やしたのだ。バックにはあやしげな「ねさよの歌」、古い音質で流れていたと思う。

 学校の、というより人間集団の最も醜いものの一つのように思えてならない(いや、そもそも人間の集団というものはどんな由来の、どんな目的のものであれ醜い。学校というのはその中でもそうとうに醜い部類に入るが)。そして、言葉というものをあからさまに軽視、軽蔑し、単なる道具に落とし込むかのような……、ああ、絶句。ちくしょう、うまく言えねえや。
 なんつーの、そこに学校教育みてえなもんが踏み込むな、と。いやね、「これこれこういう言葉づかいはこれこれこういう理由によって悪いのです」という、そういう意見ってのはあってしかるべきだ。むしろ、不快に感じる言葉があるならば言え、言え。それに納得すれば自らの言葉づかいを考え直すこともあるし、自分の中の良心コレクトネスを書きかえることもある。むろん、納得しなければ言葉づかいは改めない。使うことによるマイナスと、使いたいという思いを秤にかけることもある。あるいは、グレーゾーンになって、使ったり、使わなかったり、局面によって言い換えたり、注釈を必ず入れるようにしたり、そういうこともある。
 グレー、そう、なんつーか、言葉ってそんな単純なもんじゃねえだろう。たとえば、「俺」ひとつにしても、かつて「僕」だった「俺」もあり、「俺」でなくては言い尽くせぬところが大きいこともあり、あるいは表記で「おれ」にすることで生まれるニュアンス、いずれにしても伝えきれぬこと、言葉にする上で殺される何千、何万もの可能性、そこが背景にあって、「俺」は、というのだ。
 いや、そんな物言い、いかにも大げさだし、今この瞬間も、ほとんど手癖で打ってるわけだけども、けど、そういうもんじゃねえのか、言葉って。たとえば、ここで俺が漢字かな交じり文を書くことである人びとを遮断しているのかもしれない。かといって、ひらがなで書いたところで、ひらがなが障壁になる人もいるだろう。あるいは、日本語を選択している時点で、相当の可能性を殺しているかもしれない(かといって俺はほかの言葉を使えない)。舊字舊假名を選んでゐないといふのも一つの選擇であり、また選ぶ自由もある。まあ、なんでもいいが、なにか発せられる一言、コンビニで「あ、袋いいです」って言うたったひとことだって、やばいくらいのもやもやして巨大なもの、宇宙開闢からのあらゆる分岐を乗り越えて出てくるものであって、それはもうどっかの神さまが「光あれ」と言ったとか言わないとか、それとかわらんのだ。たぶん。
 だからこそ、学校みたいなものが押しつけたり、先回りして掃除しておいたりしちゃいかんのだ。それは違うんだ。それは誰かが「自分はこの言葉についてこれこれこう考える、思う、感じる」と言うのとは違う。だいたい、学校が子供からねとさとよとさとよとなとらさせて、何が生まれるんだ。それで生まれるものがすばらしいのかわからんし、生まれたところでそんな生まれ方させる世界が人間にとって、人間の自由にとってプラスなのか、ラブプラスなのか。俺はソヴェートにいるジイドのような気持ちになる。ソヴェートにいたジイドがどんな気持ちだったか知らないが。
 考えすぎなのか、俺は。言葉はそんなに大したもんじゃないのか? 道具なのか? 手段なのか? メリットやデメリットを秤にかけてどうにかする程度のものなのか。いや、違う、道具だし、手段だし、メリットやデメリットを秤にかけて使うものではある。俺だって仕事のメールでいきなり「べ」とか「だべ」とか使ったりはしない。クライアントの要請あれば開きたくない漢字を開き、開きたい漢字を開かない。矛盾してるかもしらんが、なんとも思わない。俺はその中で好きにやるだろうし、ちょっと気に障るだけで、とくに深く感じることはない。そこは俺の戦場じゃないし、その中でちょっぴりでもおもしろくやるだけだ。戦場ってなんだ?

 ……ねさよのせいで、話がクソ逸れた。「だべ」の話だ。そうだ、俺は完全に「だべ」の人間になったし、そこのところは抜けないだろう。むしろ、ねさよ抹殺に激しく腹がたったように、自分たちの、日常の、本音の言葉に愛着を持っていたといっていい。そう考えると、「だべ」化以前の自分が本当の自分、自由な自分であったかどうかというのもあやしいのだ。ただ、その「本音の」とか飾らないとか、そういうあたりも十分にあやしいという部分はある。「ガハハ、腹を割って話すぞ!」というところのノリが建前化して、しかしそれに逆らえない空気、局面というのは大いにあるわけだし、それが自由を、人間を殺すなんてのはありがちだ。本音らしきものに、理路やスティッチが役に立たなくなる。ネタからベタとかいうのかなんだかしらんが、そういうところもある。それをマッチョだとかなんだとか言うのであれば、そうなのだろう。
 ちなみに、俺はといえば体育会系のようなノリというのは心底大嫌いなものであって、徴兵でもされれば真っ先にトイレで銃口くわえるタイプの人間だと思う。ただ、一方で上品さやインテリっぽさ、本音や心情の見えぬ二階建ての言葉やその応酬というのも見ていて心底うんざりしてしまうし、つまりはなにか立つ瀬のない気ばかりしている
 しかしまあ、それよりも俺がほんとうに知りたいのは、俺の中の方の話であって、俺を成り立たせる俺というものと言葉というものの関係というか、相違というか、システムというか、なんといっていいかわからんが、そこのところだ。なんといっていいかわからんと言ってることからわかるように、おれはむつかしい言語学だのなんだのを勉強していないし、むつかしそうなので勉強する気もないのだが、畢竟そればかり気にして生きているといっていい。そのためにはできるだけスッキリして、最強でなくてはならんと思っているし、やがては無分別の世界へ、自然法爾の世界に旅立っていくのだし、一方でそれをここかここではないどこかに書きつけるつもりだが、それを読むものがあろうとあらないであろうと、まったくどうでもいい。おしまい。

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