私家版『コクリコ坂から』〜最終章〜

 漫画『コクリコ坂から』を読み、ジブリ映画の内容を勝手に予想して書いてきたが、今回が最終回である。

あらすじ

 人びとの暮らしが豊かになりはじめ、進歩の夢を追い続けるようになっても、戦争の爪痕や革命への情熱が消え去っていない昭和日本。港町横浜で、ひとつの大イベントが執り行なわれようとしていた。戦後復興の証として世界を駆け巡っていた帆船日本丸と貨客船氷川丸の帰還、その永久保存を祝う御前奉祝祭Y150。このイベントのために立退きを要求された高校・港南高校。高校生たちの若き紛争は、やがて横浜を巻き込んでいく……。

第8章

 山手本通りから横浜の街を見下ろした風間俊は息を飲む。そこにみえたのは海が掲げつづけたUW旗ではない。翻るはすべて赤旗。人びとの怒号、それとも喚声がこだまする。怒りなのか、歓びなのか。ああ、あのうねり、生の発露。革命家がいる、労働者がいる、学生がいる、右翼すらいる。金沢区奪還を旗印にした横須賀市兵までいる。誰が音頭を取るでもなく、みなそれぞれに思うがままに通りを走り、圧制者の城を蹂躙する。不思議な調和を織り成している。寿町は生命の凱歌にあふれ、山手の洋館は煙をあげている。俊はいつまでもその光景を見つめていたいと思う。
 しかし、俊には行くべきところがあり、やるべきことがある。投石のためにところどころひっペがされた石畳の上を駆け足で急ぐ。目的地は喫茶エレーナ。ドアを開けると、カランコロンとベルが鳴る。女主人が一瞥くれる。ここだけは不思議な静寂を保っている。小走りでカウンターへ。女主人はコーヒーカップを磨いている。
 「……モロトフのパフェを」
 じっと俊の目を見つめる女主人。
 「あいにくだね、売り切れだよ」
 俊の頭の中は真っ白になった。真っ白の虚空に落ちていくような気になった。なぜだ、すべてはこの日、この時のためにあったのではないか……。力を振り絞る、カウンターを叩く。
 「なぜです! 協会の言うとおりにやってきたんだ、すべては神殺しのため……!」
 「おだまり、若いの! 上の決定は覆らない。……あんただから言う。手打ちがあったんだ。パルヴス商会も手を引いたよ」
 横を向く女主人。
 脱力する俊。
 不意に、胸ポケットで携帯が鳴る。発信者は水沼だ。今は寿町の労務者部隊を指揮しているはずだ。水沼はこの決定を知ってるのか? 受信ボタンを押し、耳を当てる。
 ガガガガガ! 
 飛び込んできた轟音。ジャミングされているのか? と、思いを巡らせた瞬間、切迫した声が飛び込んでくる。
 「俊、聞こえるか! 蜘蛛だ、大蜘蛛が……」
 ふたたびの轟音で水沼の声はかき消される。妨害音ではない、現実の破壊音。
 ツー、ツーと無機的な電子音を繰り返す携帯。女主人が声をかける。
 「さあ、目をおさまし! あんたにはまだやることがあるだろう、とっとと支度しな!」
 見れば、カウンターの上にダイナマイト、そして二連式の散弾拳銃。
 「さあ、お行き!」
 俊の目の前に飛んでくるキー。

 ――東京。
 特別列車に乗り込もうとするひとりの「人間」。そこに黒い背広の男が、礼を逸さぬぎりぎりまでの早足で近づく。一礼して小声で何事かささやく。「人間」は南の方の空をあおぐ。巨大な魚の幻影を見る。そして踵を返した。

 俊は陸王の複雑な運転法に戸惑いながらも、出来るかぎりの早さで本通りを駆ける。フェリスで、雙葉で、女学生たちが肩を組みインターナショナルを歌う。機動隊とデモ隊が睨み合う。右翼と沖仲仕が取っ組み合っている。彼女は、海はいったいどこにいるのだろう? いや、ただ、今は急げ、急げ、全速力で地蔵坂を下る。もがれた濡れ地蔵の首を跳ね飛ばす。もう少しで寿町……!
 と、そこで俊は信じられぬものを目にする。天を覆い尽くすように立ちふさがる巨大な蜘蛛。大蜘蛛の機械。八人の操縦士が操る巨大な八脚がドヤを踏み潰す。口から火を吐き、また水も吐く。同志たちが火炎瓶で応戦するも、簡単にけちらされてしまう。
 「おそいじゃないか、ゲルツェン」
 怪我をした左腕を押さえながら水沼が駆け寄る。
 「大丈夫か!?」
 「あの魚野郎め、フランス製の多脚砲台なんて、どっから!」
 蜘蛛の目が彼ら二人を睨む。頭部ハッチが割れると、市長が姿を現す。
 「そこにいたか、クソガキ! おまえら小汚いドブネズミに、私のY150をやらせはせん、やらせはせんぞ!」
 八人の操縦席がパージされる。大蜘蛛<ラ・マシン>は脚をもつれさせながらも、狂ったようなスピードで突進してくる。水沼が陸王の後部シートにまたがった瞬間、バシュッ! という音とともに8発の誘導ミサイルの飛翔! 俊はとっさの判断で橋の欄干をウイリーで駆け抜け、そのまま勢いをつけて中村川に。行き先を失ったミサイルがほうぼうに着弾し爆発する。ハッチを開けて「やったか?」と市長の眺めるさき、煙の中から疾走する陸王が姿を現す。中村川を埋め尽くすクラゲの上を走っている。クラゲは死んだ男たちの魂。そのまま大蜘蛛の正面に跳びかかる。
 「ユニバァァァース!」
 二人の手にはダイナマイトとピース缶。狙うは大蜘蛛の頭。ギョギョッ! 市長に成す術なく、目の前に迫る光景を見つめるのみ。呼吸をあわせ、直前で陸王のシートを蹴る二人。
 閃光、閃光、ただ真っ白な世界。

 俊はゆっくりと目を開く。ゆっくりと、慎重に、こぼれてしまわないように。そうでもしなければ、自分の存在が失われてしまうような気がしたのだ。薄曇りの青空が見える。体の感覚が徐々に戻る。草の上に寝ている。
 身を起こして、そこが坂道だと知る。見なれた花が風に揺れる。コクリコ坂……。そして目の前に、彼女の顔があった。
 「海……、なのか?」
 彼女は問いに答えない。
 「大丈夫、安心なさい。今はゆっくりおやすみなさい」
 一輪のコクリコを俊に差し出す。
 「これはコクリコではない……オピウム……?」
 突然の爆音。空を見上げる。港の方から二筋のヴェイパートレイル。瞬時に飛び去る黒い影。
 行き先を眺めながら彼女はつぶやく。
 「F2Y飛行脚。米帝のウィッチ。じきに横浜の街も焼き尽くされるでしょう。でも、いいこと、俊? 今回わたしたちは失敗した。でも、わたしたちはなんどでも立ち上がるの。だから、今はおやすみなさい……」
 彼女は海であり、べつのなにものかであった。彼女の顔はめまぐるしく変わっていった。彼女はヴェーラ・フィグネルでありソフィア・ペロフスカヤであり、ローザ・ルクセンブルク、マリア・スピリドーノワであった。樺美智子であり、重信房子であり、永田洋子であった。ありとあらゆる正義と過ち、一時の勝利と敗北が浮かんでは消えた。
 俊は目を閉じる。
 「海、ぼくは君の父さんを……」

 俊は真暗なドラム缶の中にいる。いつからこうしているのかもはやわからない。何時間? 何日? 何ヶ月? ときおり水のはねる音が聞こえる。ドラム缶はきしむ。俊は波間に浮かぶその姿を想像しては、また暗闇の中に戻る。左手で鼻の頭を掻く。右手は起爆のスイッチに縛りつけられ、親指以外は自由がきかない。兵器というにはあまりに粗末な鉄の棺桶、旧軍の遺物。
 俊は真暗なドラム缶の中で待つ。日本丸を、海の父親を。
 
 波間に浮かぶドラム缶ほどちかくのビーチは夏真っ盛り。花やかなパステルにビキニのギャル。ラジカセからはなつかしいナンバー。加藤登紀子の「コクリコの花が咲く頃」。暗転してスタッフロール。

 おしまい。