記憶の排水溝から

 君はすばらしいLouis Garneau MV-1を駐めて、すばらしいTimbuk2メッセンジャーバッグからチェーンロックを取り出そうとする。なにかひっかかるのを感じる。君はそれが無造作につっこんでいた鍵束だと気づく。そのまま無理にロックを取り出そうとすると、鍵束を落としてしまうかもしれないと考える。下には目の粗い排水溝の蓋があるということも知っているし、そこに鍵束が落ちたら面倒だということも知っている。
 それなのに、君はロックを乱雑に取り出すことをやめない。
 オルフェーヴルが勝った東京優駿の日、万馬券を当てていい気になって買った少し値のはるキーホルダーと、それにつながれた4つ鍵、1つのミニライトはポチャンと音を立てて排水溝の蓋の隙間に吸いこまれる。

 なぜか? 
 なぜ動作をとめられなかったのか? と、考えてもむだなことなのだ。
 君はすっかり騙されてしまっているからだ。きみは君の脳に欺かれている。君が一連の動作で「鍵束を落としてしまうかもしれない」と意識していたという、その意識はおおうそだ。脳が君にそう思わせようとするペテンにすぎない。君は単にしくじった。それだけだ。
 そうだ、脳は君に「おまえは予測していたのだ。だから、目の前で起きたことは突然のことでもなんでもない。想定の範囲内だ。だからパニックを起こしてはいけない」と言い聞かせようとしている。そのために、数秒前、瞬く間の記憶を捏造した。それだけのことなのだ。
 だから君はおどろきもせず、とりあえずコートを脱ぐ。完全に鍵束が失われた場合の幾通りもの対処の樹形図を思いうかべながら、自転車のライトで鍵束の位置を確認する。排水溝の蓋を持ち上げる。排水溝にたまった水の発する妙な温かみに気持ち悪くなる。あたりに落ちていた木の枝でキーホルダーをひっかけて釣り上げる。半年前から落ちている、どこかから飛んできたタオルで鍵束を拭く。ひとり部屋に帰った君は潔癖症のように鍵束を洗う。それだけのことなのだ。

 翌朝、排水溝の蓋は、『攻殻機動隊』で士郎正宗が描いた例のシーンのように。

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