鈴木邦男『新右翼 民族派の歴史と現在』を読む

新右翼―民族派の歴史と現在

新右翼―民族派の歴史と現在

 1990年の本である。ふと図書館で目に入ったので手にとってみたが、「現在」ではねえだろうな、などとは思う。が、こんなところを読むと、反原発デモまわりのことなど思い浮かぶ。

 第四章「新右翼の現在」でも書いたが、今の日本には「言論の自由」はない。あるように見えるのは幻想だ。こう言うと、信じられないと思う人がいるかもしれない。しかし、例えば右でも左でもアナキズムでもいい、いや社会問題化している住民運動市民運動でもいい。それらの集会に行ったりデモに行った人ならわかるだろうが、公安警察にパチパチと写真をとられ尾行され、家の近所や職場に聞き込みをされる。何も違法なことをやっているわけでもないのにこの始末だ。これでは「言論の自由」があるとは言えない。

 よく左翼が「右翼は警察と結託している」「左翼だけ捕まって、右翼の暴力は野放しだ」みたいなことを言ってるけれども、さあどうなんだろうか、俺は引きこもり体質でノンポリ自称中立だからこの目で見たこともなく、よくわからん。わからんが、鈴木邦男がそう言ってるなら、鈴木邦男についてはそうなんだろう、というような気になる。
 映画『天皇ごっこ』で、見沢の粛清についても「新左翼的だなと思った。右翼は数が少ないからもったいないと考えてしまう」みたいなこと言ってて、なんというか、弱みを見せるところの強みみたいなものもあるし、それに騙されちゃいけねえぞとか思いつつも、なんかそれほど外したことを言わない人だろうというような信頼がある。
 というか、この本も初めて読んだような気がしないというか、どこで俺はそんなに鈴木邦男を読んでいたんだろうか、という気さえした。いや、読んでるのかもしれない。それで、三島由紀夫というより、森田必勝だったんだ。東アジア反日武装戦線<狼>に呼応する形で右も触発されてったんだ。街宣右翼のなかのまともなのは、自分たちに発言の機会が与えられていないと思うからがなりたててるんだ、だったらマイクを持たせてやればいい、そこでとんちんかんなことを言ったら、言論で叩きのめしてやればいい。……という具合の話。
 それに、天皇について、これも簡単にまとめてしまえるようなものとは思えないが、究極のところ、論理を超えた精神論だって言い切ってるところがいい。「信」の問題なんじゃねえかってところで、最後に出てくる感じがする。うまく言えないが、最初から天皇で踏み絵を迫るようなところがないように感じる。ただ、最後の一線のところで、でかいもんがあって、そこのところが信頼に足るように思える。
 天皇と俺というと、なんだろう。はっきり言ってしまえば、戦前・戦中世代などに比べればまったく天皇体験的なものがない、といえる。鈴木自身もその弱みについて述べ、逆に客観的になれる強みだ、とか言ってるわけだが。いや、昭和50年代半ば生まれの俺にとっては、小学生の時に起きた昭和の終わりこそがなんというか一番の体験やもしれず、まだなにごとかを考えるには早く、なにを感じたかさえよくわかっていなかった。ただ、ずっと続くと思っていたものが終わるものだった、という感覚はあった。まあ、幼き日には中曽根以外の人間が総理大臣になる日が来るとも思っていなかったわけだが。
 ……まあ、まったく理屈を超えた話になるが、昭和が終わって平成になって、平成がなじまないという心持ちはずっとある。それは自分の人生がうまくいってないところに起因するのかもしれないが、二十数年を経てなおそう感じている。どこかで、「昭和までだったんじゃないのか」という気がしている。
 あと、たとえば俺が奥崎謙三に興味を抱くのも、その反天皇にあるわけではない。問題を逸らそうとして言うのではないが、むしろ奥崎の「ゴットワールド」に興味があるといってもいいくらいだし、なによりも本当に巨大なもの、すさまじいタブーに手製のパチンコで向かっていったわけのわからん人間の底しれなさにある。情念の強さにある。そういう意味で右も左もない。
 ただ、なんというか、やはりそこで奥崎が立ち向かったものが(昭和)天皇であったからこその奥崎でもあって、なおかつ奥崎のような体験をした人間が大いにいたにもかかわらず、戦後……というと、こないだ読んだ小熊英二の分厚い本やらの話になって、うまく整理できる言葉もない。あるいは、はるか古代の、日本という名のつくはるか前の日本に思いをめぐらしても、いつの間にか天皇が出てくるわけで、いくつもの日本とかいうことで相対化したところでやはりビッグだよな、というところはある。それで、ソクーロフの『太陽』なんかを見たりして、さらにわけもわからんところに来てしまう。それを皇室に、天皇という人間に負わせることがよいことなのか? 天皇のもとでのアナーキーはありうるのか? そのとき、生身の天皇は生身のままひとりでに勝手に踊ることが許されるのか? その勝手は、ひとりでに、うまくみなと調和するようになるのか? なにかこう、システムや制度で割り切れないところが出てきてしまうような気がするのは、やはりとらわれているところがあるのか。
 で、そんなところに来たところで俺にとって重要な問題か? 大切なところか? 睡眠導入剤とカフェイン錠剤のバランスを考えるほうがずっと必要じゃないか? となる。なるわけだが、やはりそこばかり見ていると狂った脳がさらに取り返しつかず、戻ってこれないところもあって、とりあえずえらく遠まわしに自分のこと考えようとして、このところ本を読んでいる(読んでいる本が偏っているせいかどうか、順調にブログ読者が減っているような気がする)。そして、どこかの狭いアパートの一室で、本に囲まれて本を読んで生きている人間がほかにもいそうだという気配がするのは悪くない。鈴木邦男にはそんなところもある。ようわからんが、そんな気がしてしまう。まあ、とうぜんのことながら、勝手にこっちがそう思っているだけだが。

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