永遠に存続する名著―『何がわたしをこうさせたか』金子ふみ子

 何が私をこうさせたか。私自身何もこれについては語らないであろう。私はただ、私の半生の歴史をここにひろげればよかったのだ。心ある読者は、この記録によって充分これを知ってくれるであろう。私はそれを信じる。
 間もなく私は、この世から私の存在をかき消されるであろう。しかし一切の現象は現象としては滅しても永遠の中の実在の中に存続するものと私は思っている。
 私は今冷静な冷ややかな心でこの粗雑な記録の筆を擱く。私の愛する凡てのものの上に祝福あれ!
「手記の後に」

金子文子 何が私をこうさせたか―獄中手記  wikipedia:金子文子の獄中手記、半生記である。金子文子? 金子ふみ子? それとも、冒頭「添削されるに就いての私の希望」に記されている「金子ふみ」? そう、いずれとも定まらぬような、無戸籍者として生を受け……と、書き出したいところだが、女性の名前の○○子の「子」がつくかどうかはわりと曖昧な時代があったようなのでなんとも言えぬ。自分の親戚にも「ずっと○○子で、姉妹もみな○○子で、周りからもずっと○○子」と呼ばれていたのに、初めて戸籍を見たら子がなかった、けど面倒だからずっと○○子で通しているという人がいるらしい。
 いきなりの閑話休題。とりあえず金子ふみ子としておこう。関東大震災下、「保護検束」の名目で囚われ、そのまま大逆事件の裁判にかけられ(wikipedia:朴烈事件)、刑務所で縊死した女性の半生記である。
 あまりにも悲惨な幼少期、少女時代。あまりにも複雑で貧しい家庭環境、だらしない両親、受けられるべき教育は受けられず、裕福な朝鮮入植者の祖母も貰われたかと思えば、待っていたのはあまりに悲惨で抑圧された生活。ようやく日本に帰ってきても、女性を物のように扱うような環境、決心していよいよ東京で苦学生になろうとするも、待っていたのは搾取と貧窮……。
 いかにもだらしない大人の中に生まれ、傷つけられ、なんというか救いが見えてこない。とくにひどいのが、家自体は貧しくないものの完全に強圧的な祖母に支配された朝鮮での暮らしだろう。今日的に見れば、完全に家族全体を問題としたジェノグラム的なプリントアウト事案、DV案件にほかならない(ふみ子の父もまた自らの家系に縛られているのであるが)。じっさい自殺未遂しながらも、よくぞ生き抜いたといえる。支配階級であったはずの日本人でありながら、差別される朝鮮人にシンパシーを持つのも当然のことだろう。ただ、そういう思いがあったところで、自分のことで精一杯の、まだ子供なのだ。
 かように、おおよそ、悲惨な話である。だが、不思議なことに、同時に妙な清々しさがある。これが不思議だ。つらい生活の中、彼女が見つけるつかの間の自由、山に入って過ごす時の解放感の描写など、これが実に救われる思いになる。

 晴れやかな気持ちになった私は、我知らず学校でならった唱歌を歌い始める。誰もそれを咎めるものがいない。小鳥のように私は自由だ。歌い、歌い、声の嗄れるまで歌い続ける。時には即興に自分の歌を歌う、常々の押し込められた感情が自由に奔放に腹の底から拭きあげて来る。そしてそれが私を慰める。
 咽が渇くと、栗番小屋野川の梨畑から持ってきた梨を、皮も脱かずに、滓ぐるみで呑み込んでしまう。そしてまた地上にごろりと寝そべって木の間から漏れる雲間を眺める。咽ぶほど強烈な草いきれや、茸のかおりが鼻につく、私はそれを貪るように吸い込む。
 ああ自然! 自然には嘘いつわりがない。自然は率直で、自由で、人間のように人間を歪めない。私は心からこう感じた、「有り難う」と山に感謝したくなる。同時にまた、ふと今の生活を思い出しては泣きたくなる。そしてその時には思う存分泣くのであった。だが、何れにしても山に暮らす一日ほど私の私を取りかえす日はなかった。その日ばかりが私の解放された日だった。

 後に、東京でいろいろの宗教や思想に出会う彼女だが、この手記を読む限りでは、なにかしら心底自然への愛着、自由というものの強さが一番ではないかと思う。これは朝鮮にいたころのことだが、山梨の山村にいたときにも同様に自然に親しんだ話をし、こう書いている。

 それにしても村の生活をこんなに惨めにしていくものはなんであろう。遠い昔のことは知らない。徳川の封建時代、そして今日の文明時代、田舎は都市のために次第次第に痩せこけて行く。

 このあと、具体的に町の人間に騙され、絞られる村人のエピソードなんかが出てくるのだが、子供の目でほんとうによく見ているものだと思う。これはこの人の特性だったのかもしれないし、幼少時より見たくもない人間の性、どうしようもない部分を見ながら生きてきたところに理由があったのかもしらん。それはわからん。
 ただ、そんなふみ子が見たキリスト教社会主義運動はどんなものであったろうか。一度は宗教的体験に近いものをし、キリスト教者の仲間にもなる。が、結局はそれにも失望する。

基督教の教えるところは果たして正しいのであろうか。それはただ、人の心を誤魔化す麻酔薬にすぎないのではないだろうか。人間の誠意や愛が他人に働きかけて、それが人の世界をもっと住みよいものにしない限り、そうした教えは遂に何等かの詐欺でなくて何であろう。

 しかし、やがて社会主義についていろいろと知るようになり、こう語る。

 社会主義は私に、別に何等の新しいものを与えなかった。それはただ、私の今までの境遇から得た私の感情に、その感情の正しいという事の理論を与えてくれただけのことであった。

 このリアリズムというかなんというか。でも、わけのわからぬ感情が反映される理論が見つかるということは大きい。

私の心の中に燃えていたこの反抗や同情に、ぱっと火をつけたのが社会主義思想であった。
 ああ私は…………………してやりたい。私達哀れな階級のために、私の全生命を犠牲にしても闘いたい。

 が、自分がどうしてその精神を活かせばいいのかわからない。自分を「私はただ不平、不満、反抗の精神に満たされた一個の反逆児にすぎなかったのだ。」と言ったりする。それでもって、やはり新聞売り子の仕事は厳しく、またいろいろの男性との関係があったりなかったりと、だんだん本は終わりに近づいてきて……、そう、不逞社での活動だのなんだのという話はこの本にはないんだよ。ただなんだろう、そう、「何が私をこうさせたか」で、仕事で苦労をしたとかそういうことの、いちいちの細かく描かれていること、その描写、ひとびとの描かれ方のなんと巧みなこと。ガチっと裏打ちされたなんかがあるし、見方によっては当時の社会のある部分の資料にでもなるだろう。でも、なにより、一人の女としての自分とか、自分のどうしようもなさとか、そういうのもスカっと描ききっている、そういうふう見える。
 それで、最終章は「仕事へ! 私自身の仕事へ!」だ。ここで朴烈との出会いがあり、また、パーンと跳ねるような思想の炸裂があって、はっきり言ってこの章は最高すぎるし、マジいいと思った。朴烈との出会いみたいなところはなにかこう、小説として読むべきのようでもあって、思想のところをすこし書き留める。

 けれど、実のところ私は決して社会主義思想をそのまま受け納れることが出来なかった。社会主義は虐げられる民衆のために社会の変革を求めるというが、彼等のなすところは真に民衆の福祉となり得るか何うかということが疑問である。
 指導者は権力を握るであろう。その権力によって新しい世界の秩序を建てるであろう。そして民衆はその権力の奴隷とならなければならないのだ。然らば××とは何だ。それはただ一つの権力に代えるに他の権力をもってする事にすぎるのではないか。

 ××とは何だ。たぶん革命の伏字だろう。すばらしいアナーキズム
 で、ふみ子にとって真の友人であり、尊敬の師でもあった新山初枝という人も、そんな社会主義運動を冷ややかな目で見たという。

「私は人間の社会にこれといった理想を持つことが出来ない。だから、私としてはまず、気の合った仲間ばかり集って、気の合った生活をする。それが一ばん可能性のある、そして一ばん意義のある生き方だと思う、と初枝さんは言った。

 この考え方について、主義者による「逃避だ」という批判に、ふみ子は賛成しない。ふみ子もこれに同調する。だが、一つ、初枝さんと違った考えがあったという。

 それは、たとい私達が社会に理想を持てないとしても、私達自身の真の仕事というものがあり得ると考えたことだ。それが成就しようとしまいと私達の関したことではない。私達はただこれが真の仕事だと思うことをすればよい。それが、そういう仕事をする事が、私達自身の真の生活である。
 私はそれをしたい。それをする事によって、私達の生活が今直ちに私達と一緒にある。遠い遠方に理想の目標をおくものではない。

 なんつーのか、ここのあたりに、なにかいろいろの名前のついた思想とかいうもののぶつかり合いみたいなもんがあるんじゃないかみたいな、なんかそんな気がする。思想というか、なんというか知らんが、あるいは生き方とでも言うべきだろうか。右や左で割れない一個の軸、あるいはなんかもうこうちょっと多次元的なのかもしらんしが、なにかが。
 あるいは、この「真の仕事」みたいな考え方はとっくに古いもんだよ、現代思想はとっくに通り過ぎてるよ、みたいな話もあるかもしらん。だが、俺には学がないのでようわからん。ようわからんが、金子ふみ子が感じ、考えたことというのは、少なくとも今の時代の俺ひとりにとって他人ごとじゃねえし、もっと古い時代に打ち捨てられたような誰かの考えの中にも、なんかあるんだろう。あるかもしれない。俺はそれに共感するかもしれない。あるいは、人類が神類に進化しない限り、いつまでも俺程度の人間がひっかかってそこで終わるようなものの見方、考え方の壁みたいなもんがあるのかもしらん。まあ、それならそれでいい。どうにもならん。
 また、なにを言おうが「やる」か「やらない」かで人間をはかるとい軸もあろうし、その点で彼女は彼女で、あるいは俺にはどうにもできんものかもしらん。しらんが、しかし……。と、大正教養主義的な俺はまあ待っててくれといって、この項を終える。果たしていつか、彼女のようになにかを書ききることができるのかどうか、それもしらんよ。おしまい。

関連リンク

……しかしまあ、この金子さんのことを知ったのも最近のことなんだけれども、アナーキストって右はもちろん左の主流(共産党?)からも嫌われてて、なんか語られなさすぎじゃねえか。大杉栄なんてもっともっと現代に影響力あっていいだろがって。