大杉栄の「賭博本能論」を読む〜あるいは、おれの生への執着について〜

 もともと権力をきらう個性は、画一性のなかにのみこまれることをこのまない個性なのだ。そういう個性が革命という戦場からはなれたとき、つよい個人として生きつづける。つよい個人とは、孤立して生きうる個人である。孤立して生きうる個人というものは、現代社会ではほとんど不可能である。わずかに、確固たる地位を得た芸術家、自営農、浮浪人が、それにあたる
 個人主義アナーキズムは今日、それらの人の思想である。
― 『現代日本思想体系16 アナーキズム松田道雄の解説より

 ほんとうに、アナトル・フランスのいうように、賭博とは、運命が普通には長時間または長年月の間でなければ生ぜしめない変化を、一秒間の間にもたらし来らしめる、術なのだ。数分時の中に、一生涯を生きる秘訣なのだ。金を賭ける。金とはすなわち、直後の、無限の可能性をもったものだ。ひっくり返す一枚のカルタの中には、飛んで行く小さな球の中には、あらゆる地上の富貴や、栄華や、権力の可能性が含まれているのだ。そればかりではない。なおその中にはそれらのものの夢が、含まれているのだ。しかしこの賭博にはまた、恐ろしいデイヤマンの爪がある。勝手に窮迫を与える、恥辱を与える。そしてこのゆえに、賭博が崇められるのだ。あらゆる大情慾の底には、危険という引力がある。逆上のない逸楽はない。恐怖のまじった。逸楽は狂熱を導く。かくのごとき逸楽の中には、剛胆者の全筋肉をふるい立たしめる、ある物があるのだ。

 大杉栄の「賭博本能論」という一篇を読んだ。おれは一瞬、寺山修司を読んでいるんじゃないかと思った。違う。大杉栄だ。デイヤマンってなんだ? ダイヤモンドのことみたいだ。

 僕は、この賭博の心理を、冒険の心理を、人間の本能の中に見た。動物の本能の中に見た。

 そして大杉は、賭博本能というものは、原始の人類が持っていたもの、あるいは、動物のサルの中にだって見られるものだって言う。ムウホ(?)という人の『シャムおよびカンボジヤ旅行記』の中から、サルがワニ相手に命がけのからかい遊びをしているなんて話を引っ張ってくる。危険の快楽、その先にある勝利の快楽。

 要するに、人間には、みずからの偉大を感じなければならぬ、したがってみずからの意志の崇高を自覚しなければならぬ、という本来の慾望があるのだ。この自覚は闘争によって、自己に対するまたは自己の慾望に対する、および物的または知的障害物に対する闘争によって、始めて獲得される。


 ただ、大杉は博打は人類あるいは生物の本能だからおおいにやるべしって言ってるだけじゃない。だいたい、これは週刊Gallopに書かれたコラムじゃないんだ。この論は、大逆事件ののち、さらに危険が大きくなるなるであろう労働雑誌創刊に身を投じることへの決意表明だ。「僕らはもうそのいわゆる安全に飽き飽きしたのだ」と。

 かくしてこの危険と闘争との慾望は、理性によって指導せられることによって、しかもこの本能が一定の方向をもたないという稀なる本能の一であるだけ、それだけ道徳上の重要性を帯びてくる。

 快楽を求めて苦痛を避けることは、いうまでもなく人間の一本能である。しかしとかくに人間は、他の大なる苦痛に眼をつぶって、ある小なる快楽に甘んじ、かつそれに執着する怠惰性、臆病性をもっている。けれども、これと反対に、もっともこの反対というのはほんの皮相の観ではあるが、苦痛を通じてさらに快楽を求めることもまた、同じく人間の本能性である。この本能が理性の洗礼を受けない時、いかにそれが馬鹿馬鹿しき賭博性に陥るかは、さきに言った。そしてこの表面上二つの本能が生というメダルの表裏になって、人間の生活本能というものを形づくる。

 科学は、この前者の本能を満足すべく、理知によって創られた。われわれは科学の教える正確の領域において、できるだけ苦痛を避けて快楽を求めねばならぬ。また科学のいわゆる正確領域をますます拡大することに務めねばならぬ。しかし、科学の領域ははなはだ狭い。われわれの生活本能はとうていこの科学だけで満足はできない。そこで臆断(スペキュレイション)をやる、哲学(フィロゾファイズ)をやる。かつかの科学そのものにすら、その根底において、必ずなんらかの仮定がある。かくしてわれわれは、この後者の本能に押されて、未知(アンノウン)の世界に入って行く。

 さて、手に負えない放射性物質が撒き散らかされた世界で、科学はほんとうに苦痛を避けて「正確領域」をきたのかどうかなんて言いたくもなる。あるいは、科学そのものにすら、その根底において必ずなんらかの哲学がある、ということであってほしい。クロの社会哲学の本当のねうちはそこにあるんだ、ってやつだ。われわれがアンノウンの世界に賭けつづけなければならないのであれば、ね。
 まあ、しかし、大杉や当時のアナーキストなり、左であれ、右であれ、「本能」とかで言い表してしまっているものが、科学の「正確の領域」の拡大によって、神経伝達物質であるとか、ある種の電気信号にまで還元されてきてしまった今、なにを臆断するのか、哲学するのかという問いはますます強まっているはずだ。「人間の実践的生活は、宗教・道徳・政治の三方面を有つて居る」、「東洋では其等の三者を分化されることなく、飽迄も人生を渾然たる一体として把握し、三者を包容する精神生活全体の規範を求めて来た」大川周明は言ってたけども、まあ宗教はともかくとして、道徳と政治は人間の脳の仕組みが明らかになればなるほど、それにきちんと対応していかなきゃ、いろいろと手遅れになるなるんじゃねえかって、そんな風に思う。おれは学がないので現代思想とかいうものにまったくついていけないからほとんど知らないけれども、スラヴォイなんとかってやつもそんなこと言ってたと思う。同情あるいはヘイト、懲罰感情、博打へののめり込み、犯罪傾向、ひきこもり傾向、政治思想、そいつらが脳のある箇所と関連しているって記事、見ない日はないぜ。そしてそれは、100年後のやつらから見ればロンブローゾの人相学程度のものかもしれないが、その100年後に人間の精神というものが、人間というものがどうなっているか、正直おれには想像がつかんのだ。
 まあ、この話は100年でも置いておこう。

 個性の発達を全く無視し、かつあらゆる手段をもってそれを抑圧する今日の社会制度の下にあっては、真の個人的行動は、そのほとんどいたるところにおいて、常に困難と苦痛と危険とに遭わなければならぬ。そしてかの第一本能はわれわれに妥協を命じ、屈辱を強いる。われわれをして、ただ生きて行く(ヴェジェテイト)というだけの、生の安全を保たせる。そしてわれわれには、このただ生きて行く(ヴェジェテイト)というだけの生に対しても、なお猛烈な執着、すなわち自己保存本能がある。

 ヴェジェテイトはvegetate、植物のように無為に生きて行くという意味のようだ。植物にだって言い分はあるだろうし、そんな植物を田村隆一と一緒になって尊敬したくもなるが、まあそれは置いておこう。
 「個性の発達を全く無視し、かつあらゆる手段をもってそれを抑圧する今日の社会制度」。言うまでもなく、大杉は大杉の生きた時代を言っている。しかし、現代を見てみたらどうだ、この2012年のことを言っている。なるほど、国家権力も当時に比べればずっとましなものになっている。物質的にも、経済的にも、下り坂かもしれぬが科学の正確の領域の拡大のおかげでずっとましなものになっている。
 なのに、なにかこう、かなわんというところがある。おれはおれの話しかできないが、もう生きにくくてかなわん。というか、おれはもうすっかり死ぬことにしたくらいのところまで行って(いかにして僕は心配するのをやめたか - 関内関外日記(跡地))、その後、医者にかかってまた薬を食べて働いて死なないようにしている。アパートの部屋に執着している、パソコンに、テレビに、ブルーレイレコーダーに、カメラに、自転車に執着している。いや、それらの「もの」はもうたいした意味もな。ほとんど必要なカロリーを摂ることがいつまで許されるのか? というレベルのところへの執着だ。
 生への執着、これはまことに強烈なもので、結局「死ぬことにした」つもりでいたのに、脳の不調でじっさいに身体が動かなくなって最初にしたことはiPhoneで近くの精神科の電話番号を調べ、電話をかけたことだった。
 結局、薬を食って必要なカロリーを摂取するために脳を調律してまだ生きようとしている。一方でひどく死にたい。より一層、寄り添うように死にたいという思いが貼りついてる。妙な話だ。おれはいきなり憲兵に銃殺されたり、愛国烈士や左翼テロリストにぶっ殺される危険もないのに、ひどく怯えて、気が狂った。
 かといって、おれは「真の個人的行動」なんてものをする、立派な個人とやらではない。それとも、今時ひきこもってニートするようなやつこそが「真の個人的行動」なのかね。まあ、おれはそれすら続けられなかったのだから(続けられていたんなら続けていた。もっとも、呼称が「浮浪人」の現代風のやつになっていただろう)、なんとも中途半端だ。
 まあ、いきなり飛躍してスペキュレーションしてしまえば、人間が狩猟採取から農業の生活に移ったときに不必要になったやつら、戦争くらいでしか役に立たないやつら、パーソナリティー障害と判定されてしまうやつら、そういうやつらが種の保存のため、多様性の維持の生存戦略のためかしらんが一定数いて、生きづらい世を生きることを強いられているんだ! と。ああ、ジェイムスン型の義体に脳を移して人工実存にでもなって、北朝鮮のロケットで打ち上げられて軌道上からレディオ・フリー・アルベマスしたい(ちょっとまて、ドクター・ブラッドマネーか?)。けど、なんかおれの好きな作家や思想家って、そんなやつらじゃなかったかって思うんだ。そして、それなりに少なくない人間が、そうなんじゃないかって。少なくとも、今の世に対しては、ね。
 現代人の愚痴はこのあたりにしておこう。

 けれどもわれわれはまた、こういった無為(イナクティヴ)の生活に堪えられるものではない。いささかなりとも自己超越本能を満足せずに生きていられるものではない。そこでわれわれの対社会的態度は、常に隙をうかがっては冒険的方面に出ようとする。一歩でもいい、ただ生きて行くという生活から超越したい。一刻一刻に現在の自己を超越して行きたい。この種の冒険は、十分道徳的に構成せられた個人の、健全なる正則(ノルマル)の行為である。そこにわれわれの生の、真の成長、真の創造がある。そしてもし全くそのすきがないと見た時、この自己超越の本能は、ついに自己保存の本能に打ち克って、時として自己犠牲の行為にまで進む。この場合の自己犠牲は、もはや、自己の生の単純なる否定ではない。かえって自己の生の崇高なる肯定であるとともに、またそのみのり多き拡大の予想である。

 で、最後がこれである。これを読んでおれは、直感的に「金子文子はこれで死んだんだ」と思った。このテキストを目にしていて、この影響を受けて死んだ、というのではない。いや、目を通していた可能性も少なからずあるだろうが、金子文子が死ぬとすれば、虚無主義なんかじゃなくて、こういったものだったんじゃないか。よくわからんが、おれはそう承知してしまった。いや、そう思いたいと思ったんだ。病人の妄想だ。

 おれはおれ自身を健全でもノルマルでもないと思うし、そうとうの欠陥持ちで、かなり倫理観とか道徳観にかけたやつだと自負している。そんなおれが、やはり自己保存の執着みたいなものをこじ開けてみてやはり思うのは、能動的に死んだ奴はえらいってことだ。前からそんなところがあって、自分から死刑になりに行くような、救いがたいやつであっても、そこんところはすげえって思ってたし、なにかますますそう思うようになった。大杉や金子がもっと生きて、もっともっとたくさんの言葉を残してくれたらと思わずにはおられんが、どこかしらやっぱり死ぬまでやるしかなかったんだろうって思うのだし、そうなるしかなかったんじゃないかって思いもある。
 おれはもう貨幣経済なんてものの中で生へ執着するのもうんざりしているし、人と人とのつながりなんていうもっとだいきらいなものが中心になって、評価経済社会(まあ、本も読んでいないしよく知らんが。なにもできない人間にパンが施されるのが前提なら賛成してもいいがね)なんてものが訪れたら、いよいよ息ができない。いずれにしたって、芸のできない猿回しの猿には生きる場所も方法もない。
 それでもおれは生活に執着するし、いろいろの自己矛盾を抱えてやがて破綻するだろう。自死か路上か刑務所か。とりあえず今日のところは、「公開する」ボタンを押して寝ることにする。おれはいつも同じことを書いて文章もいつも雑だ。慚愧慚愧。

関連☆彡

叛逆の精神―大杉栄評論集 (平凡社ライブラリー)

叛逆の精神―大杉栄評論集 (平凡社ライブラリー)

……おれは上記の『現代思想体系』で読んだが、これにも収録されているらしい。
パーソナリティ障害の診断と治療

パーソナリティ障害の診断と治療

……ちょっとだけ人類進化の中で云々の話が出ていたように思う。

……おれはもうやめてしまったけれども、競馬のすばらしい一瞬を感じたことのない人は損をしていると言いたい。