ある自動階段人夫の話

 おれの両の手はごつごつしていて、長年つかいつづけてきた腕も変なふうに曲がっているらしい。自分の顔にふれてみれば、ふかく刻まれた皺が指先をくすぐる。しかし、おれには、それが見えない。おれの視界は真っ暗闇のなかにある。
 おれが両のまなこを失ってから、どれだけの時間が経ったのか、もうはっきりとはおぼえていない。ただ、光を失うまえ、最後に見たあの光景だけはしっかりと頭の中に刻まれている。おれにははっきりと見えているのだ。
 
 あれはもうずいぶん昔のことだった。革命がおきた年よりも、さらに何年も前のことだ。おれは故郷の村から大君の宮につかえる人夫として都にかり出された。おれは両の親からしっかりした体躯と、物静かな気性を受けついでいたし、七族しらべても凡庸な百姓ばかりで、怪しむべきところもなかったからだ。おれは囲りにながされるままにお仕え人夫となったのだった。
 おれの仕事場は、大君の奥の宮だった。一段と高く高く作られた宮には大君の寝室があった。そこにいたる自動階段を動かすのが、おれたちの仕事だった。おれたちは自動階段の横に一列に並ばされる。自動階段に乗る大君やら后やら側室やら側近やらが踏み板に足をのせると同時に役人が合図の旗を挙げ、おれたちは回転棒に手を掛ける。人夫頭が低い声で漕ぎ歌をうたいはじめると、それに合わせておれたちは一個ずつの歯車になって、回転棒を漕ぐ。階段は音もなく上昇をはじめる。おれたちには目の前の人夫を見ることしか許されていない。ただ、その手ごたえから、大君やだれかをのせて登っていく踏み板を想像するだけだった。
 いくらか仕事に慣れたころだったろうか。人夫仲間の他愛のない話で、こんなことを耳にした。何年かかけて国中をさがしまわっていた、大君の爪を噛む少女が見つかったというのだ。大君の御身体に刃物をあてることは許されていないので、伸びる爪は清純な少女がその歯で手入れする、そういうしきたりなのだが、それに見合う少女はめったに見つからんものだという。それで、どこぞの村の神官の娘が適任ではないかということになり、幾度もの検分の末、ついに認められたというのだ。なんでも、どんな地位のある人間でも頭を下げずにはおられず、いくら富のある者でもこの世に手に入らぬものを知って己が財を恥じ、海の向こうより将来された四海の知識を有するという学者でもその美なるを形容する語を知らず、信心深さで知られる老僧ですら自らの情欲を見出したという。
 まあ、そんな尾ひれのついた噂話はいくらでもあるものだ。けれども、いよいよ明日、例の爪の巫女さまが奥の宮にお登りになるらしい、そんな話を聞いたとき、おれの中になにかざわつくものがあった。今もってなにやらわからぬが、胸の奥に小さな火照りのようなものが感ぜられたのだ。おれはなにやら浮ついたような気持ちで、いつもの持ち場に着いた。
 そこまではよく覚えているのだが、その先の成り行きははっきりと順序立てて語れぬ。ただ、わかっていることは、おれが大君の爪を噛む少女の姿をひと目見ようと回転棒に脚をかけて飛び上がり、豪奢な手摺りから身を乗り出したということだ。すぐに護衛のものに引っ立てられ、その日のうちに家畜用の焼きごてで目を焼かれたことだ。
 そして、二度と光の入らぬおれの目のうちに、あの少女の姿が焼きついたのだった。透きとおるような白い肌に、濃い黒紫色の長い髪、おれを見てすこしおののいた、美しい顔。そして、おれと少女の澄み切った目に、一瞬なにごとかを伝えるものがあったと、おれはそう感じた。おれは言うべき言葉も見つけられず、押し黙ってただその交感に身をまかせた。そこまでだった。あれが一瞬なのかもっと長かったのか、おれにはついぞわからない。
 その後、おれは不思議なことにつかのま牢獄に入れられただけで、追放されるでもなく、もとの持ち場の、もとの上昇階段人夫に戻された。今考えるに、信頼できそうな人夫を徴用できなくなっていたのかもしれぬ。
 しかし、なにより自動階段には手慣れた人夫が欠かせないのだ。いくら若くて力のあるやつを並べたところで、力任せじゃうまく踏み台は登っていかない。自動階段はなにより滑るようにはあらねばならない。よけいに加速してもならんし、減速してもならん。つねに一定の速度が保たれなければならない。
 それで、あいつはもう盲いてしまったし、狼藉の働きようもない、あれは一次の気の迷いだったと、そう片づけられたのだろう。なによりおれは、腕っこきの一人だった。
 そしておれは、いっそう立派な自動階段人夫になった。苦も楽も言わず、ただ毎日を歯車としてすごした。盲しいたうえに、口まできけなくなったのかと軽口を叩かれたりもした。ただ、おれにはそんなことの一切がどうでもよいことであった。
 おれの見えぬ目のなかにはいつもあの少女の姿があって、おれが回転棒をひとこぎするごとに、彼女は音もなく自動階段を昇っていくのだ。どこまでもどこまでも昇っていくのだ。おれにはそのよろこびにまさるものなぞなかった。おれが自動階段を動かすたびに、彼女はどんどんどん高いところに昇っていった。それが彼女の願いだったし、どんどんどんどんそれが叶えられていくようにおれは朝も晩も漕ぎつづけた。

 革命が起きたとき、おれはついに自動階段人夫頭にまでなっていた。役人は旗のかわりに、おれの肩に触れるのを合図にする。なんであれ、声を出してはいかんというしきたりらしい。
 あの日の朝も、おれは合図を待って自動階段の横に並んでいた。そのときだった。革命軍のやつらが、せっかくの自動階段をドタドタと音を立てて駆け上がっていったのだ。さすがのおれも、世の情勢くらいは小耳にはさんでいたから、なにがおこっているのかは見当がついた。しかし、想像していたより下品で乱暴なやつらだ。黙っていれば、おれたちがその踏み板を音もなく上昇させてやるというのに、まったくわかっちゃいない。まったく、精巧な歯車仕掛けも台無しじゃないか。自動階段は走ってのぼったりするものじゃないんだ。まったくわかっちゃいないんだ。
 その後、大君がどうなったかは連中が喧伝したからよく知っている。ただ、あの少女がどうなったのかはついぞ聞かない。あたらしくできた政府とやらは、徴用された上に目まで焼かれたおれを、王制の犧牲者だかなんだかと持ち上げようとしたが、そんなあつかいをされるのはまっぴらごめんだった。おれは苦役なぞではなく、歓喜の中にあって彼女をはるかはるか空の上まで昇らせていく、その役目を負うていたのだ。おれは決して奴隷などではなかった。いくら説明しても、あの下卑た連中にはわかりはしないだろうさ。
 
 そしておれはいまも、自動階段人夫をつづけている。ただし、その場所は王宮ではなく、百貨店とかいうものだ。近ごろ人々は大君のかわりに、銭金だとか、物貨を拝むようになって、それを自由にできる人間がまるで貴族のようにふるまっているらしい。おれが地下室に場所をかえてしていることも、賃金労働とかいう名前がついている。
 まあ、おれにはそんなことは関係ない。おれはもうだれも歌わなくなった古い漕ぎ歌を口ずさみながら、朝から晩まで回転棒をまわすだけだ。すばらしい自動階段の歯車は音もなく滑らかに駆動するし、踏み台は一定の速度でのぼっていく。おれの自動階段に立つのはいつでもあの少女ひとりで、彼女ははるか高く高くへと昇っていく。どこまでもどこまでも昇っていく。おれにはそれがはっきりと見えているのだ。