石牟礼道子・多田富雄往復書簡『言霊』を読む

言魂 表紙にコブシの花あって、なんとなく‘タダスメモリー’などという言葉が思い浮かんだが(マグノリアに‘ワダスメモリー’という品種があるのでね)、『生命の意味論』や『免疫の意味論』を読んだ覚えがあるくらいだった。だから、往復書簡中に出てくる、リハビリテーション打ち切りに関する署名活動などに自分が少し関心を寄せていたメモリーなども、すっかり忘れていたという具合なのだった。
 石牟礼道子はといえば、この間なんとか『苦海浄土』三部作を読み終えたばかりで、あれはかなり重くて、なかなか本が読めなくなっている。いや、そうではないな。年度末で仕事が少し忙しいせいだ。
 さて、おれは、よく覚えていないものの『生命の意味論』などにガツンとやられた覚えもあるし、この二人の往復書簡本があると知れば、それは読みたくなるというものだった。が、読んでみても、なにか遠い世界の話のようであって、心に突き刺さるようなものはなかった。一つには、主な話題の一つである能についておれはまったく知らないというのもあるだろう。You Know Men?
 もう一つには、やはりおれの生きる苦界、もっとリアルで、ラーメンが獣臭い世界と離れていることにある。それはもう、仕方ないことなんだけれども。もっと長く生き、思い病苦を背負った人間、戦争というものを生身で知っている人間、深い知識とセンスのある人間、そういうものと、おれとは違う。老いることを我身とは思えぬ……いつまでも若い気でいるなんていう景気のいい贅沢な不安ではなく、老いるまで働ける能力も才覚もなく、老いるまで生きる権利、すなわち生きるための金に見通しは立たず、生きるための居場所が来月、再来月にはなくなっていてもおかしくはないおれというものと、彼らのもっと巨視的な不安や絶望感とは隔たりがある。老いより自殺を想像するほうが容易い。病に倒れ、苦しみ、自殺を考えたという多田先生の言葉を読んだあとですら、おれはそういうことを平気で書ける。衒いも狙いもなく、実にフラットに、直截的な意味で。
 むろん、それとこれとが相いれぬものであるわけでもないだろうし、根が一緒であるかもしれない。だが、おれに戦争や環境汚染を憂える余裕がない。なんともみみっちく、貧しく、愚かしい、心の暗い人間と言われようとも、おれはおれで手一杯だ。チッソの孫らしいだろう。そしておれは、人類必敗の歴史、人類必敗の明日にささやかな小銭を賭けよう。どこで払い戻されるのかはしらないが。

 人類に滅亡がやってくるとして、もっとも悲しまれるのは、人間というもろい生物のそなえていた奇跡のような美的願望だと思われます。いかなる階層にもそなわっている自己哀憐が、諸文明の発生を見ればわかります。多様な古代文明からはじまって、今もうかがわれるその芸術様式、演劇などなど、生命をはぐくんできた植生のさまざまをわずかに残して、すべて滅び去るのでしょうか。どんな様相でほろぶのでしょうか。
 子どもたちにまでほぼ自覚されている現代の虚無について考察するのは、本意ではありません。そのかわり、昔、神の手を借りたかもしれない芸術的本能を少しなりと呼びもどして、寂寥感をうずめたいものでございます。
―第八信 花はいずこ (石牟礼道子