笠原和夫『破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲』を読む

破滅の美学 (ちくま文庫) 『仁義なき戦い』の脚本家、笠原和夫の……エッセイといっていいのか、なんといっていいのか、……本である。はっきり言って、おれよりもっと詳しいやつが半径2クリック以内にいるからその人に聞いてくれ、という気分だ。おれに語れることなんてなにもないだろう。
 けれども、去年あたり『二百三高地』、『日本暗殺秘録』、『226』あたりから入って、ついに『仁義なき戦い』を観て、そうとうに気になる人物、いや、ファンといっていい、ファンになってしまったのだから仕方ない。そして、この本もめっぽう面白かった。映画の裏話から、実際の取材で得たヤクザの話、裏の世界のエピソード、本人の歴史……。
 それでもって、べつに観りゃそう思うだろうという程度の話だろうけれども、この人の作品に流れるアナーキズムみたいなものに納得するところがあって、自分の観方はそれほど的を外してなかったなって思えて、まあその程度で了解できてよかったというところはある。

 ジィドから始まり、サン・テグジュペリ、マルロオ、カミュと継がれていくフランス文学の<行動主義理念>は、わたしの青春時代の「バイブル」であり、「陳」はそのなかの<偶像>であった。

 生い立ちの根っこのところとかも面白いんだけど(これはまだ読みさしの別の本になるか)、こういう根もあったのか、とか。いや、おれは上に挙げられた文学者たちの中で読んだことがある本といえば、ジイドの『ソヴェート旅行記』とカミュの数点くらいなんだけれども、そう、カミュといえば『正義の人びと』(未読)で社会革命党戦闘団であって、ボリス・サヴィンコフである。アゼフ、サヴィンコフ。このあたりは去年おおいに流行した話(おれの中で)であって、見逃せないようにも思う。
 とすると、川崎浹の名も頭の中に出てくる。「わが青春のサヴィンコフ」的な人が、なぜ開戦から終戦まで戦い抜いたゼロ戦乗りの本(太平洋戦争の始まりと終わりを戦った『ある零戦パイロットの軌跡』を読む - 関内関外日記(跡地)……この本で取り上げられてる小町定は体罰を振るわなかったので有名だ。逆に海軍の中でろくでもない体罰が行われたエピソードなら、『破滅の美学』にも……いや、もう一冊の方にいろいろ出てくる)を書いたのか、なにかそのあたりとリンクしはしないか、などと。
 そしてさらには、おれの中にもいつかから芽生えてすくすくと育ってはいないが、岩場に絡みつく松の根のようにがっしりと動かぬ「やったやつはなんであれエライんだ」という感覚に相通じるところがありゃせんかと、まあ僭越ながら思う次第。ああ、「やった」というんは、殺すか自殺するか、そのどっちもか、という意味ね。けど、一方で、「やれなかった」ことを悔いつつ一生を黙って過ごす者こそ男の中の男かもしれない、などとも。
 一個くらいアナーキストを混ぜてもわからんだろうということで、右翼テロの濃い『日本暗殺秘録』に古田大次郎のエピソードを入れたというのもいい。古田の『死の懺悔』をこう評する。

 その獄中記『死の懺悔』は、挫折したみずからの青春を傷む美しい感傷の名文で、権力と政治を拒否して自壊してゆくほかにない、純正アナーキズムの悲しいロマンチシズが惻々と伝わってくる。

 そんでもって、こう続く。

 この古田大次郎に扮した高野長英君が、抜群の熱演であった。どうも日本人というのは、アナーキーなことをやっていると生き生きとしてくる、というのがわたしの持論で、落語が現代まで延命しているのも、斜に構えたそのアナーキーぶりが大衆の支持を受けてきたからだろう。

 「どうも日本人というのは、アナーキーなことをやっていると生き生きとしてくる」。ああ、なんかそんなところはあるような気がする。いや、あると信じたい。すごいしょうもない例として、おれは「かなまら祭り」を挙げておきたい(→日本人はアホなのか?―かなまら祭り2012― - 関内関外日記(跡地))。
 まあ、まらは置いといて(どこに、どうやって?)、アナーキストに話を戻すと、こんなふうに書いている。

 アナーキズムは純粋であればあるほど、際限なく細胞分裂を繰り返して、果ては散り散りの星屑となって消えゆく。政治思想というよりも、<破滅の美学>とでも言った方がいい。それで、ロシア革命の口火を切ったアナーキストたちも、赤軍の政権が確立すると真ッ先に抹殺されてしまった。
 桜の散り際を愛し、寄り集まることは好きでも団結することが苦手な日本人には、この儚くも誇り高き<美意識>はぴったりなのではないか――一度、徹底したアナーキーなやくざを描きたい、と、「女渡世人」シリーズの一本を受け持ったとき、監督の山下耕作氏に相談した。

 「寄り集まることは好きでも団結することが苦手な日本人」。おお、そういうところもあるか。まあともかく、それでできたのが『女渡世人・おたの申します』で、ラストシーンのラストカットの藤純子が唸るほど見事らしいので今度見よう。
 まあともかく、このあたりの美学が根底にあるということがわかって、なんといっていいかわからんが、おれには嬉しいし面白い。それも、古田大次郎を称える一方で、特攻の生みの親である大西瀧治郎や桜花の野中一家を男の中の男とするあたりが、さらにしっくりくる。ギロチン社の生き残りに取材したものの、現実の東アジア反日武装戦線の事件に先を越され没になった「東京革命戦争」、観たかった。
 あとは三島由紀夫のエピソードなんかもある。エピソードといっても、三島に評価されたことがある種の重荷になっていたということだ。割腹自殺のときは、京都の嵯峨野で『博奕打ち・いのち札』を執筆中だったというが、さてなにか直接影響はあったのかどうか。そういや、若松孝二足立正生もちょうど事件の際にどっかのホテルで脚本を書いてて、さっそく三島の自決を作品に取り込んだという話だったが、なんのタイトルだったかな……。
 と、なにか政治思想? に感想が触れてしまったが、そんなのはこの本の魅力のほんの一部でしかないと言っておかねばならない。綿密な取材で知り得たヤクザ社会の細部、決して「男の中の男ではない」人間の喜劇(これはそのまま『仁義なき戦い』にあらわれてくるのだけれど)、遊び暮らしているヤクザより肉体労働をするテキヤの方が喧嘩が強く、それよりもさらに漁師の方が強いとか(なんか寡黙な漁師がヤクザ三人くらいぶっ殺したってニュースあったよな)、ヤクザは足の爪先を見ながら話をするとか、沖縄の「遊人(あしばー)」についてだとか(B29をロープで引っ張って盗んで屑鉄にして売ろうとしたやつがいたなんてほんとかね?)、江戸の鳶(いろは四十八組、戦時編成の一旅団!)と岡っ引きの話だとか、明治の廃刀令が出たあと、左肩が上がって右へ傾いて歩いてる人が見られたとか、服の上から銃弾を受けても血が飛び散ったりどろどろ流れたりせず、ズボンの下を伝うくらいだとか……。
 それに、映画の話か。作戦参謀としての脚本家とか。

1 内容はどうでもいいからヒットさせる(総攻撃方式)。
2 ほどほどの入りで、ほどほどの評判をとる(引き分け方式)。
3 興行成績が悪くても、内容を高めて、スタッフやキャストの名前を売り込む(戦略方式)

 と、このいずれかに基準をおいて、欲をかくな、とか。そういや、押井守も映画制作を軍事に例えるの好きだったような気がする。『攻殻機動隊』は勝つことがわかっていた戦いだった、とか。
 あとは、師匠マキノ雅裕の名言だとか。「陰陽のアクセント」……人と人が対しているとき、同じボルテージで双方がしゃべることはありえない、「半間の芝居」……わざと流れを踏み外す寸描、「閾際の芝居」……人の本心は敷居際の間に出る、とか。まあ、このあたりはちょっと映像を見てもわからんかもしらんが、少し気に留めてみるかとか。
 あとは、女やくざものの話とか。

 わが国には大衆演劇のなかに<女剣劇>のジャンルがあって、根強いファンを持っている。藤純子の<女やくざ>はそれを銀幕に移して大成功した、という見方もできるが、制作の側の立場で言うと、やくざの<情感>は女を通しての方がより美しく、より効果的に書けるという手応えがあった。
 やくざに限らず、男の内側には、女以上に<女々しい>部分がある。<女やくざ>はその部分を自然に直截的に表出する。
 「お竜さん」が演じたものは、実は<男ごころ>そのものである。そこに人気が持続する秘密があったのではないか――。
 <女やくざ>こそ、やくざ映画の本流であった、とわたしは信じている。

 この考え方を戦闘するアニメの少女たちに応用するのは……ちと無理あるか。というか、それ以前に藤純子見なきゃな、うん。それじゃ。

>゜))彡>゜))彡>゜))彡