是枝裕和『官僚はなぜ死を選んだのか』を読む

 おれと水俣病。おれの祖父はチッソに勤めていた。母を含めた四人のきょうだいを育てた。おれはこの間、石牟礼道子の『苦海浄土』を読んだ。おれは大変に影響をうけた。しかし、これ以上水俣病という具体的な事案に深入りする気もなかった。しかし、本棚でふと「これってたしか」と手にとって、やはりそうだったので読むことにした。他の視線、それを見る視線からおれの視線を照射させると、点は線になり、線は面になり、さらに奥行きが出てきます。著者は『誰も知らない』の監督。そうじゃないかと思ったらそうだった。
 「死を選んだ」官僚は山内豊徳、徳は旧字体、死後、正四位勲三等旭日中綬章授与。

 上級公務員試験(なんだかよく知らない)の席次2位ながら、「ながら」のつく厚生省、すなわち利権の少ない省を選ぶ。文学少年、文学青年気質多分にあり、またヒューマニストでもあったようだ。彼が厚生省を選んだ動機ははっきりとわからないが(片思いの女性が入省したので、と語ってさえいた)、福祉や環境の分野はぴったりの人材であり、本人もやる気に満ち溢れていた模様。埼玉県庁に出向した際(『県警対組織暴力』にたとえるなら梅宮辰夫の立場)も、普通の腰掛出向者とは違い、熱心に同和問題生活保護問題、老人問題などに取り組み、現場から異例の「立ち上げた部署が軌道に乗るまで、もう少しだけいてもらえんか」との声も。本人も後に埼玉時代が一番やりがいがあったと回顧した模様。なお、仕事人間であって、見合い結婚のエピソードなどはほほえましいが、全部一人で抱え込み疲弊していくさまは、こないだなんかのドラマで唐沢寿明が演じていた営業マンのようでもあり。
 ……というような人物が、新しい環境庁に行き、悪戦苦闘しつつ、やがて発生から長い時間が経ってなお解決を見ない(解決がありうるか、という話でもあるが、裁判や賠償の問題として)水俣病とかかわり、なんらかの板ばさみに遭い、電気コードで首を吊って死んだ。享年53、平成に入って2年目のこと。
 「読書感想文はあらすじを書くものではないのです」。小学校の教師はそういう指導をする。知った話か。おれは小学生じゃないだ。よく覚えとけ、おれがなにをここに書こうが勝手だ。さらにメモをすれば、国側がチッソ無罪説として戦時中に海洋投棄された爆薬から何とか鉛が溶け出した説を出してきたこととか、週刊新潮週刊文春が「ニセ水俣病患者」叩きで活躍したこととか、1982年に「123号通知」にあわせて週刊新潮が徹底的な生活保護不正受給者問題でキャンペーンをはったこととか、それが奏功して「疑わしきは救済せず」がいきわたって本当に困ってる人間まで死んだこととか、山内自殺後に家族にメディアスクラムがあったこととか……。まあ、人類失敗、人類必敗の歴史か。
 そんななかでわりと興味深い箇所がふたつ。

 1979年、時の首相大平正芳は、今後の福祉行政について『日本人の持つ自立自助の精神』と『相互扶助の仕組み』を組み合わせていくと方針を示した。
 これはまさに国による福祉行政の放棄に等しい発言である。

 おれはクロポトキン好きのアナーキストだから相互扶助おおいに結構と言いたいところだが、「これはアカン」としか思えぬ不可思議。著者の言い切りにも同意したくなる。
 というか、なんかの調査で「貧困者を国が救うべきか」という問いに、アメリカ以下の数字を叩きだしたとかいう「自立自助」の日本精神、おれはどこかで「日本人どこか近代国家それ自体に対するアンチであって、その見えざるアナーキズムがそう言わせているんじゃないか、『総て官のつく人間は泥棒悪人の類』の意識があって、親類縁者、地域の助け合いみたいのがそう言わせてるんじゃないか」と、自分の境遇や意識とは縁もないし、まったくかけ離れた想像をしていたのだが、どうも違うようだと思い直している。『苦海浄土』で水俣病患者同士で「あいつは不正受給をしている」などという怪文書が出たなどという話を読んだからだ。そこまでそうなら、それはないな、と。大平や中曽根大勲位の「方針」どおりの国民になっただけだ。そしてたぶん、おれもそうだから、おれはやがて自死か路上か刑務所の三択を選ぶはめになる。
 そしてもうひとつ。「社会福祉事業法」第4章第18条に社会福祉主事の資格についてこんな条文があって……、今は「社会福祉法」というのかな? それに、今は19条かしらん。

 第19条 社会福祉主事は、都道府県知事又は市町村長の補助機関である職員とし、年齢20年以上の者であつて、人格が高潔で、思慮が円熟し、社会福祉の増進に熱意があり、かつ、次の各号のいずれかに該当するもののうちから任用しなければならない。

http://www.houko.com/00/01/S26/045.HTM

 山内は自らの著書で、この「人格が高潔で、思慮が円熟し、社会福祉の増進に熱意があり」という部分について疑問を呈しているのだ。無論、ケースワーカーがこのような資質や理想を持つのはたいへん結構だが、これは法律上の資格要件に含める範囲の話だろうか、と。しっかりと福祉の仕事が体系化されておらず、私的救済から抜け出ていないってことじゃないだろうか、と。イザヤ・ベンダサンのごとく、スウェーデン人女性ジャーナリストのペンネームで書いた文章でも、日本の「フクシ」は落合の息子……は関係ない、日本の「フクシ」はソーシャル・ウェルフェア、すなわち「慈悲」であって、ソーシャル・サービスではない、と指摘している。
 おれはこのあたり、机上の福祉も、福祉の現場もまったく知らないわけではないけれども(同居していた祖父が重度のパーキンソン病、同居していた叔父が一級の身障者手帳を持っていた、というくらい)、専門的な知識や生業でもなく、軽々しくは言えないものの、なにか要所を鋭く突いているように思えた。人の善意というやつはサステナビリティが怪しい。もっとシステマチックにやるべきなんじゃあないのか。
 ……と、一方で、システマチックにやりすぎると、板挟みで情に厚い官僚が死ぬのか? よくわからない。よいシステム、よい人間で社会が成立するんならそれもいいだろうが、そういう見込みはない。だいたい、そのシステム自体、政治という根回し、利権、強者の論理で成り立っているものだろう。
 国家というものはなんだろうか。これに対して個々人がなしうることはなにか。強者に対して香車の論理、すなわち行きて帰らぬ特攻精神が必要なのか、この官僚のように首を吊るべきなのか。考えるべきことは多い、やるべきことは少ない。あるいは、やるべきことは決まっていて、考えることでそこから逃げているのか。一体なんなのか。おれには、とんと、わからぬ。ただ、やったやつはえらい。それだけは言える。

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……今また見たらなにか違う感想が出るかどうか。