水槽の中の脳髄


「結局、アルコールもニコチンもやってないんだって?」
「まったくやってないね、まったくだ。せっかく脳に薬物を入れて、なんていうのかな、組み替えをしようとしているのに、そいつを阻害するのはおもしろくないじゃないか。アルコールもニコチンもいい連中だけど、われら科学の先端、精神薬に乾杯というところだ。かわりに競馬をやろうとは思ってるけど」
「脳の中の組み替え、っていうのが目下のところの目標なのか?」
「球体の水槽……、金魚が入ってる、古典的なやつでも思い浮かべてもらえばいい。その中に、そうだな、やっぱりメダカがいたりヌマエビがいたりタニシがいたりして、水草とかも生えている。どっかから酸素が供給されているかもしれないし、ぱらぱらと餌が降ることもあるかもしれない。まあ、おれは脳味噌がそんなものだと思っていて、水槽の中の水質なのか生態系なのか、そいつを組み替えたいってさ。
「その水槽の中のことは、水槽の外に影響するのかな?」
「さあ、それはさっぱりわからない。おれはよく呆けているんだが、不安感に押し潰されて呆けたようになっているのか、はたまたすごくふわふわ心地よくなっているのか、その違いは外に影響しているといえるのかな。ただ、この水槽をアハトアハトかなにかで吹っ飛ばしたい割ってこなごなにしてしまいたいという気持ちは、今のところ限りなく少なくなっている」
希死念慮がなくなったってこと?」
「たぶん、今のところ、そういうことだろう。ただ、そいつは蓋をしているとか、一時的にバルブを閉めて遮断しているとか、そういうことに過ぎないと思う。ところで、人間は必ず死ぬということになっているのに、それを念慮するとたちまち病気ということになる、というのはなんかちょっと変な気もするけどね」
「死に向かうのと、偶発的に死を迎えるのは違うことなんじゃなのか?」
「死に向かう自由意志があるとして、それと偶発的な死というのかな、まあ身体の耐用年数が尽きたりするのもそうだけれども、それらにどれだけの違いがあることなのか。自分のはからいなんてたいしたものではないのに、それで死ぬとしてたいそうなものでもなんでもないようにも思える。なにせ、ゴーサインの判子をつくのは、メダカやヌマエビやタニシや水草でいっぱいの水槽にすぎないんだぜ」
「水槽というか、水槽の中身が多数決かなにかで自壊を選ぶと」
「ただ、なんだろう、いつだったか『人をなぜ殺してはいけないのか』って話題になっていたことがあったろう。おれはおれなりに考えたんだけど、結局たどりついた答えは、『できあがったラーメンをぶちまけるのは面倒だ』ってことだった」
「どっから出てきたの、ラーメン?」
「ラーメン屋の厨房より、自宅の台所という方がいいな。まずラーメンを作るってことは、腹が減ったかなにかで、ともかく食うためにやってるんだな。それなりの手間がかかる。それで、どんぶりに麺とスープ、具を盛りつけたりして、テーブルに運ぼうとする。そこで、手が滑ってラーメンをぶちまけてしまう。熱いスープで手をやけどしてしまうかもしれないし、流れ出たそいつはカーペットに染みを作ってしまうかもしれない。麺は熱いからすぐに片づけられないし、なにより腹が減っているのに、事後処理をしなきゃいけない。おまけに、しばらくの間、居間がラーメン臭くなるかもしれない。すごく最悪な気分だ。これに比べたら、インスタント焼きそばの麺を流し台にぶちまけるなんて平和な話だ」
「人間の生き死にの話じゃないのか? いまいちよくわからない」
「だから、わざわざ厄介なことをしないほうがよくねえか? ってことだよ。この脳とかいう水槽だって同じことだろう。藻だらけでひどいことになっているかもしれないが、ぶちまけたら、なんか厄介かもしれないってさ。でも、ぶちまけた水槽の中身は、瞬時でも死を認識するんだろうか。ギロチンで首を刎ねらる人間に、ウインクで首と胴体が切り離されたあとに意識があるかどうか確かめたいって頼んだ話は好きだな。あと、高橋源一郎が描いていた、ケネディ夫人が夫の脳味噌を拾い集めようとしてたシーン。やっぱり灰色のかけらになったヌマエビは、その瞬間も藻を一心不乱にかきこんでいたのかな」
「うん、まったくよくわからないんだけれど、ともかく今はそんな感じなのかい?」
「だいたいがそんな感じだと思う。最近はね、この首の上に乗っているものがまったく自分から切り離された器官のようにも思えるんだ。球体の水槽、あるいは宇宙飛行士のヘルメットでも、ラーメンのどんぶりでもいいけどさ。不安ってのは心臓、内臓で感じるものだろ? その伝達みたいなのが首のあたりで遮断されている感じがあってね。お互いに関係ないよってことにしている感じがある。首から浮かんだ不安の想念は内臓に響かないし、内臓に生じた不安の不整脈は首から上に届かない。そいつが、あほみたいに高いジプレキサのせいなのか、ベンゾジアゼピン中毒のせいなのかわからないけれど。このまま頭の水槽と胴体がどんどん乖離していったら、ろくろ首だかになって、現代の離魂譚みたいになるのかなって思うけど、まあ手が滑ってラーメンが台無しになるよりは、いくらかマシな話じゃない」
「そうか、まあ今日は中学二年生みたいな話が聞けてよかったよ。ところで、ここは水槽の中なのかな、外なのかな」
「やっぱり君もそう思っていたか。やっぱり叩き割って確かめてみる必要があるのかもしれない」