たまごやきに国民栄誉賞を

 たまごやきに国民栄誉賞を、という話は決して目新しい話ではない。1983年11月に行われた国民栄誉賞選定会議の中でも議題にあげられている。とはいえ、その会議においては明確な否決に至っている。一人の選定委員がたまごやき狩り上がりだったのだ。彼は、いかにたまごやきが森の中で卑劣なシフトオフを行い、近隣の村々でバーバリティーを発揮したかという熱弁をふるった。なかにはたまごやきを推す声もあったが、元たまごやき狩りは現役時代のごとく鋭いスタッバーの一撃を相手に食らわせて、ついにそのたまごやき擁護派は、議場の中央で自らの小学生時代からの自涜行為によって性器が大きく弯曲してしまったか、泣きながら告白することになったのである。ちなみに、選定員の一人が名曲『相鉄線で恋をして』の作詞者であり、かの曲はエピソードがもとになったのは有名な話である。
 相鉄線で恋をして 二俣川までは各駅停車
 夢見るあなたは上星川 カーブを描く平沼橋

 21世紀を迎えるにあたって、あらためてたまごやきについて考える必要があるのか、大局的なものの見方についてわれわれは討議しなくてはならぬようだ。しかし、問題となるのはたまごやき自身の意思であることがまず第一であることを改めて確認する必要がある。たまごやきはこの件に関してどう考え、なにを発言してきたか。
 驚くべきことに、たまごやき自身はこれに関してなんらの意思をも表したこともない。1988年7月6日、喜望峰沖のマグロ漁船内にて「余ハ近代合理主義を以テ亜細亜ノ盟主タルヲ国是トスル二決シテ与セヌモノナリ」と述べたという説もあるが、その証拠は不十分と言わざるをえない。
 では、たまごやきを巡る周囲についてから、その中心にある空洞を塑造することは可能であろうか。これもまた難しそうである。目玉焼きは成層圏で文字通り人民の星と散り、オムレツときたら性交のしすぎで公民権を剥奪された状態にある。伊達巻きとなると、本件に関して静観の態度を取ると1955年の第1回会議で発言して以来、表舞台から姿を消してしまった。
 問題となるのは武闘派として鳴らすゆでたまごであろう。その直進性、速度、命中率、どれをとっても他の卵とは比にならない。一たび彼が腹をくくれば、一族郎党引き連れて、都の護りなど鎧袖一触である。
 ただし、たまごやき狩り衆が大いなる自然……すなわち森を味方につければ話は違う。市街戦に持ちこまれる前が勝負である。たまごやき狩り衆の草笛による連携、地形と植物を駆使した致命的なトラップ。近接戦闘においてもブリューワー・ドブソン体術によるスムージーゆでたまごのカーヴ・フィッティングを逆手にとってパーリングするのは目に見えている。
 森はわたしたちに大きな恵みをもたらすものである。工業化が進み、もはや人々は里山を必要としなくなった? 否、森は人、森は城、森は森、この三か条を心に刻み、新入社員のみなさんは五月病で一刻も早く社会からドロップ・アウトののちアウト・ロー・グロヴェリングしていってもらいたいと思う次第である。