生活に苦しめられて死んでいく

今週のお題「七夕」
 こどものころ、七夕の短冊に何かを書かされるとき、おれは何と書いてきたのだろう? なにかのプロ・スポーツ選手になりたいだとか、漫画家になりたいだとか、そんなこどもらしい夢を素直に書いてきただろうか。そんな覚えはない。可能性があるとすれば、「お金が欲しい」、「お金持ちになりたい」とか、教師のこどもらしくあれという思いを裏切るようなものだったろう。

生活が「苦しい」と回答した割合は60.4%。過去最高だった前年の61.5%からは減少したものの、依然として6割を上回った。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130704-00000135-jij-pol

 なぜ、おれはこどものころそんなに金がほしかったのだろうか。あまりの守銭奴ぶりに、小学生の低学年のころ母方の親戚に説教されたこともある。金さえあれば欲しいおもちゃも好きなだけ買えるから? もちろんそうだ。ただ、今のおれが振り返ると、やがて来る生活への恐怖、労働への嫌悪を、幼心に予感していたのではないかとすら思う。お金がほしい。お金持ちになりたい。働かなくても生きていける権利がほしい。お金がほしい。
 おれの生活は「苦しい」。つねにおびやかされている。ここのところは仕事も少ないし、もう終わりは近づいている。ただ、この仕事が終わったからといって、エンドロールが流れて人生が同時に終わってくれるわけではない。自死か路上か刑務所か。選択肢は現れるかもしれない。どれも苦しい。おれは苦しいのは嫌だ。嫌だから苦しいというのだ。
 1玉98円でずっしりと重いキャベツを買った。得な買い物かと思ったら、葉の一枚一枚がやけに薄く、はがすのも面倒なので巨人のうなじを切るとるような切り方をする。おれが『進撃の巨人』で気になるのは、「メートル」という単位が平気で使われていることだ。ファンタジー異世界の作品でものの単位を表すべきか。清水義範あたりがなにか書いていたっけ。むろん、おれは『進撃の巨人』をアニメ最新話までしか知らないので、「メートル」の根拠もいずれは明らかになるかもしれない。
 こどものころのおれは、来るべき家の没落をうっすらと予感していたのだろうか。やけに金がほしかった。金はあらゆるものと交換できる、何よりも人間が欲するべきだと思っていた。おれはこども心に金がほしかった。おれは間違っていなかった。安心は金で買える。
 だからといって、おれは金持ちになるためのあらゆる努力を放棄してきた。忌避してきた。働くのは嫌だ、努力も、チャレンジも、なにもかもいやだ。ぼんやりと寝転んでいたい。黙ってここから動きたくない。それなのに、金がないからぼんやりもできないし、黙って動かないわけにもいかない。
 動揺と狂気を抑えこむために薬を飲まなければいけない。けれど、いくら薬を飲んだところで不安の根っこが現実だから、それが変わらない限り、おれが変わるわけもない。わざとピントをぼかしているだけだ。わざとピントをぼかしているだけだ。
 この気持ち悪い世界。居心地の悪い世界。常に生へのベクトルを? おれには無理だ。おれには意志がない。おれを収容する工場が必要だ。そんなことを言う政党はないものか。おれに安心を与える神はいないものか。高額の宝くじが当たらないものか。なにも望み薄だ。ぼけっとしていたら、苦しくなくなるようななにかはないものか。おれはぼけっとしていたら安心になって、安らかになって、平らかになっていたい。平らかになって、ふらりふらりと雲のディテールがよく見えるところまで漂っていきたい。